握りしめた剣からガーゴイルロードのものだった液体が、ぽたり、ぽたりと砂上に落ちては吸い込まれていく。
 フレイドは何かに取り憑かれたように、瞬き1つせず、それを凝視していた。
 その瞳の色は、刃に塗られたそれよりも尚鮮やかな、真紅──。
 二つに裂かれたガーゴイルロードの巨体から流れていた体液は、すでに流れ尽くし、乾いた大地を寸時も潤すことなく、その果てしなき井戸の底へと吸い込まれていた。
 しかしそこに残る鼻を突く臭いは、一陣の風が過ぎ去った後でも消えることはなく、血にまみれた己の剣を凝視するフレイドの思考を、さらに停滞させる。
 ──“死”を。
 ──さらなる“死”を!
 彼女は無意識に、あるいは無気力に、それまで凝視していた右手の剣をゆっくりと掲げた。その視線は倒れたジェナヴィスへと向けられる。
 フレイドがふらりと足を踏み出した、その時、
「やれやれ。今回もハズレのようだな」
 革の靴底が砂を噛む音と共に現れた、妙に呑気なネストの声が聞こえた。それはその場の空気──フレイドの纏っていた雰囲気──を、一瞬で破壊してくれた。
「……ネスト」
 我に返ったように、そして少しだけほっとしたような声で、フレイドは愛すべき性格の義姉の名を呼んで振り返る。
 そのフレイドを見たネストは、ほんの一瞬、顔を強ばらせた。が、すぐにいつものやや不機嫌そうな表情になり、そしていつもの調子で話し掛けた。
「せっかくお主にまとわりついていた雑魚どもを始末してやったというのに、これでは私の苦労も報われん」
 そんなネストの調子に、くすっと小さく笑うフレイド。どうやらこちらもいつもの調子が戻ってきたようである。
 一度空を見上げて大きく深呼吸してから、彼女は剣に付いた血を一振りして払い、スッと鞘に収めた。その手慣れた仕草はあまりにも完成されており、それだけで芸術的な優美さを見せてくれる。
「──とりあえず。この方たちをどうにかしないといけませんね」
 ぐるりと周囲を見渡して、そこここに倒れ伏している冒険者たちを確認するフレイド。
 一見したところでは、いずれも重傷……というより、致命傷の域に達しているように見える。しかし近付いてよく見てみれば、わずかだが「生きている証を示して」いた。
「ふむ……まだ何とかなりそうか?」
「ええ。これならまだ《リザレクション》で回復可能なレベルでしょう。もっとも、今はスクロールしかありませんけれども」
 砂に埋もれるようにして倒れている手近な人間──ジェナヴィスの顔を覗き込むようにするネスト。その後ろでフレイドは、ネストが持ってきてくれた自分のバックパックの中身を漁っている。
 それをちらりと見やり、
「やれやれ仕方ない。ならば私も手伝ってやるとしよう」
 面倒くさそうな口調とは裏腹に、ネストは得意満面な顔をして立ち上がる。
 フレイドはそんな義姉の姿に、再び小さく苦笑を漏らした。

 瞼の裏に焼けるような熱い光を感じて、ジェナヴィスは顔をしかめた。そして重い瞼を半分ほど開いたところで、その眩しさにもう一度顔をしかめる。思わず閉じた片目をそのままに、ぼんやりとした視界の中に写ったのは、刺すような陽光とそれを半分だけ遮る誰かの影だった。
「……まだ動かれない方がいいですよ」
 優しい、まるで新緑を揺らすそよ風のような声が、文字通り彼の耳を吹き抜けていく。まだ夢の中にいるような心地だ。
「フレイド。こっちの連中も意識が戻ったようだぞ」
 別の声が飛び込んできた。──そう。まさに「飛び込んできた」といったふうに、夢見心地の意識の中に、いきなり現実感を叩きつけられる。
 先ほどの「声」とは違って、それは確かな「ヒトの肉声」だった。
 それが彼の意識を、体を覚醒させた。
「──!?」
 バッ!と擬音でも出そうな勢いで上半身を起こすと同時に、2つの目をはっきりと開く。その彼の動きに合わせて、誰かが傍から離れるような気配を感じる。
 ジェナヴィスはそちらに顔を上げて、その何者かを不思議そうに見上げた。
「……?」
「動けるようでしたら、早くこの場を離れた方がよろしいですよ」
 長い銀糸の髪が、風に梳かれて視界いっぱいに広がる。その中にある神秘的としか言い様がない紫闇の瞳と青褐色の肌に、ジェナヴィスは目を奪われた。
(この人は、さっきのダークエルフ!)
 言葉にすればそんな単純な感慨なのだが、気持ちは表せないほど高ぶっていた。
 何か言わなくてはと、ジェナヴィスが慌てて口を開きかける。しかしその機先を制するかのように、彼の目を見つめていたフレイドの薄い唇が、囁くように動いた。
「あなたも騎士なら、仲間を守ってあげなさい」
 そして流れるように視線を逸らし、彼女はジェナヴィスから離れていく。
「あ……」
 ようやく出た声は、掠れていた。そこでようやく、唾1つも出ないほど口も喉も乾いていることに気が付く。喋れなかったのは、何も興奮していたからだけではないようだ。
 ジェナヴィスはフレイドの動きを目だけで追い掛ける。彼女は、いまだ寝ているシヴィルの傍にいるもう一人のダークエルフの肩に手を置いた。
「帰りましょう、ネスト。もう大丈夫よ」
「そうだな。ここから先は、こやつらの才と運に任せるとしよう」
 全身を覆う外套のせいでジェナヴィスには解らなかったが、応じた声でネストが女性だと気が付いた。
 二人はそれぞれのバックパックを背負い直し、まるで何事も無かったかのようにその場から立ち去ろうとする。それぞれが、小さな巻物を手にするのが見えた。
「あ……あのっ……」
 掠れる声を精一杯張り上げて、ジェナヴィスは何とかそう呼びかけることが出来た。
 それに気が付いた二人が、同時に顔だけを振り向ける。
 しかしジェナヴィスの声は、それ以上は続けることが出来なかった。
 声の出ない口だけをぱくぱくと動かす彼の様子に、ネストは皮肉っぽく唇だけで笑う。
「早く逃げないと、蟻どもの餌にされるぞ」
 そうして二人のダークエルフは、白い光の残照を残して消えていった。

 光が粒となって空に溶け込んでいくのを見送ってから、ジェナヴィスは体を投げ出すように地面に横たわった。
 あの二人の言うとおり、すぐにもこの場から移動した方がいいのだろうが、正直、今は四肢を動かすのも辛い。
「助かった……いや、助けられたな」
 雲一つない真っ青な空を見上げるその顔が、思わず緩んでしまう。
 インパクトとしてはこれ以上ない出会い方だと言える。ジェナヴィスの脳裏には、先ほどの戦闘と去っていった二人のダークエルフの姿が、繰り返し描き出されていた。まるでそのことを忘れまいとするかのように。
「何者なんだ……あの二人?」
 呟いた彼の隣で、仲間たちがようやく目を覚まし始めていた。

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