「あぅあ〜〜〜〜〜っ!!」 悲鳴とも泣き声とも取れる声を盛大に上げて、エルフの少女が通路を駆け回る。 その後ろには……ダース単位のスケルトンたち。 「ふ……増えてるぅ〜!?」 ちらりと振り向いたそこに、見たくもない骨格標本の群れを見て、少女は大きな二つの瞳から噴水よろしく涙を流した。 手に手に錆び付いた短剣を持ったスケルトンたちは、まるで親鳥に従う雛鳥のように、規則正しく一列になって彼女を追い掛ける。 その姿は、かなりコミカル。 「っだぁー! だからジッとしてろと言ったろう!」 さらにその後ろから、剣と盾を構えた甲冑姿のダークエルフが続く。 彼はスケルトンの行列を後ろから剣で払い、盾で殴り飛ばしながら追い掛けていた。 その動きには無駄がない。 仲間が木の葉のように蹴散らされているというのに、他のスケルトンたちは全く気にせず少女を追い掛ける。 当然だ。 彼らには知性がない。与えられた命令を忠実に実行するだけの、操り人形(ゴーレム)なのだから。 「だってだって……!」 ダークエルフの叫びに、何事か喚き返しながらエルフの少女は目の前に迫った通路の角を素晴らしいコーナリングテクニックで駆け抜ける。 ──と。 そこに新たなスケルトンの集団が待ち構えているのを見てしまい、彼女の足は走ってきたスピードをそのままに、ギュン!とヘアピン軌道を描いた。 そして追い掛けていたスケルトンたちの脇をもの凄い速度で駆け抜け、今来た通路を逆走しはじめる。 「こわいんだもぉーんっ!!」 「……無傷じゃねーかよ」 スケルトンたちが反応する間もなく自分の横を駆け抜けていった少女に、ダークエルフの青年は疲れたように呟いたのだった。 「この世界に『何か』が迫っている!」 そんな不確かで抽象的でよく解らない理由から、アデンに生きる五大種族のお偉いさんたちは、種族の若者たちを次々に旅出させていた。アデン各地を探索させるため、そして将来の有事に備えた戦士を育てるために。 しかしそれは名目上のことで、旅に出た各種族の若者たちは、それぞれに自分の進むべき道を選び始める。 ある者は城を奪い合う戦に身を投じ、ある者は一攫千金を狙ってドラゴンに挑み、そしてまたある者は失われた古代の遺産を探す旅を続ける──。 そんなアデンの冒険者が、この二人。 エルフの少女、リュン。 ダークエルフの戦士、サイフォード。 彼らは今日も、富と栄光を求めて冒険の旅を続けていた。 「──何度も言うけどな」 ガチャガチャと金属製の鎧を鳴らしながら前を歩くサイフォードが、ため息混じりに口を開く。 「お前は《スカウト》なんだから、俺の後ろから弓撃ってればいいんだ」 「……後ろから撃ったもん」 彼の後ろを付いていくリュンは、拗ねたように頬を膨らませて、目の前のダークエルフの背中を見上げる。 彼女の身長は、サイフォードの胸までほどしかない。成年したエルフ族としてはもとより、人間と比べても低いだろう。彼女の年齢を人間に当て嵌めれば、十六かそこらなのだから。 そんな身長に反比例するように伸ばした、神秘的ですらあるモーブの髪。解けば足首まで届くというその髪を、綺麗に揃えた前髪と顔のサイドだけ残して、飾り気のない丈夫な布と紐でポニーテールにしている。 その美しい髪に彩られた彼女の顔立ちは、やはり身長に比して幼い。エメラルドグリーンの大きな瞳。微かに朱の差した丸い頬。桜色の小さな唇。その手の趣味の人が見れば感動するほどの、童顔(エルフだから当然)美少女であった。 そんな彼女と旅をするサイフォードは、 「ばぁか。俺が接敵する前に撃つ奴がいるか」 わりと口の悪い、ダークエルフ族の騎士だった。 グレイシルバーの髪は、やや長い。前髪が目に掛かって鬱陶しそうだと思うリュンの感想は、あながち間違いではないだろう。しかしそれは彼の剣を鈍らせるほどではない。 ダークエルフ族特有の青褐色の肌に、端正な顔立ち。濃紺の瞳を持つ目は、少し険があるものの、同族異種のリュンから見ても、十分に整っていると思える。 その気になれば女性の一人や二人は簡単に口説けそうだが、如何せんこいつは口が悪い……。 それが、ここ最近はずっとサイフォードと一緒にいるリュンの素直な感想だった。 「だいたい、前も同じことやっただろ。そのちっこい頭の容量、もう少し効率的に使えよ」 言いつつ半身だけ振り向いて、リュンの頭をぽむぽむと叩く。思わずリュンの顔に血が上る。 「ちっこいゆーなっ!」 「んじゃあ、ちびっこ」 「う、後ろから撃ってやるっ。キミの頭めがけて撃ってやるっ!」 「ということは、避ければちゃんと敵に当たりそうだな」 「なにおーっ!」 口から火を噴きそうな勢いで吠えるリュン。それをさも可笑しそうに笑って見下ろすサイフォード。 一見バカをやっているように見える二人だが、実際にバカだろう。 何せ彼らがいる場所は、人工的に造られた物とはいえ、ダンジョンなのだから。 ここは『黒魔法研究所』。ダークエルフ領のほぼ西端に位置する、廃棄された施設だ。 かつてここで研究に勤しんでいたダークエルフ魔術師たちが、自らの護衛や研究成果として生み出したモンスターのみならず、外部から進入した魔物たちも闊歩する、危険な場所だ。 そんなところで悠々と会話を楽しめる(?)のは、よほど腕に自信がある者か、ただのバカしかいない。 「次こそ、キミもびっくりして裸足で逃げ出しちゃうくらいの、もぉのすっごい技をみせてあげるからねっ!」 「そりゃ楽しみだ」 喉を鳴らすように笑いながら、サイフォードは再び通路を進み始める。人工的に造られた石の床は、彼のブーツから小気味よい音を出させてくれる。 憮然とした顔でその後ろに続くリュンの足下からは、ひたりとも音がしない。革製の靴はその靴底が異様に薄くなっており、彼女の無意識での忍び足とも相まって、見事な無音状態を作り上げているのだ。 無意識下でこれができるというのは、取りも直さず彼女の実力の高さを証明している。 だからこそ、今まで固定パーティーなど組んだことの無かったサイフォードが、彼女とのペアを承知しているとも言える。 それはリュンにしても同じ事であり、サイフォードの戦士としてはもとより、冒険者としての実力を認めているから、今は一緒に旅をしているのだ。 ──少なくとも、本人たちはそう考えているようだ。 「おい」 しばらく変化のない通路を進んだところで、サイフォードがくいっと顎で前方を差した。通路の先が、少し明るくなっている。 「あれ? 外に出ちゃうの?」 不思議に思ってリュンは思わず身を乗り出そうとする。それを慌ててサイフォードが引っ込めた。 「バカっ! 見付かったらどうする」 「え? え?」 わけも解らぬまま、通路の壁にある柱状の出っ張りの影に引きずり込まれるリュン。 「よく見ろ、バカ。ありゃ吹き抜けになってるんだ」 柱の影から顔を出すサイフォードに倣って、リュンもそっと通路の先を覗き見る。 彼らが隠れている通路の途切れ目にある柱のような場所から先は、およそダンジョンには似つかわしくない、陽光が差し込む場所になっていた。 サイフォードの言うとおり、そこは地上部分から最下層まで吹き抜けになっており、この人工ダンジョンの石畳もその部分では綺麗に途切れていた。代わりに向こう側へ渡るための、金網のような橋が架けられている。 その橋の上に、先ほどとは少し違うスケルトンが数体。まるで置物のようにぴくりともせず佇立していた。 「ご丁寧に橋をふさいでくれてるな。橋の下に飛び降りるわけにもいかないし、やるしかないか」 「うぅ……またスケルトンだよぉ……」 がらんどうの体で立ち、何も映さない目を闇に向けている骨たちの姿に、リュンは早くも涙目になっている。彼女は『動く死体』が大の苦手なのだ。 「お前な……そんなんでよく冒険者やろうと思ったな?」 「こんな死体ばっかのとこに来るのが悪いんだぁ! だいたい、キミがここに用があるって言うから、付き合ってあげてるんだゾ!」 「別に一緒に来てくれとは言わなかったけどな、俺は。──仕方ないだろう。長老からの頼みなんだから」 憎まれ口を叩いたサイフォードだが、リュンに涙目で睨まれて一言付け加えた。 彼がちょっとした用事で久しぶりに故郷の村に戻ったとき、たまたま見かけたダークエルフ長老会の1人、ベリオールが何やら憂鬱そうにしているのに声を掛けたことが、今回の冒険の始まりだった。 ベリオール曰く、「黒魔法研究所にいるサキュバスに、毎晩悪夢を見せられている」のだそうで、その悪夢を払うためにサキュバスを討伐してきて欲しいというのだ。 よほど「自分で行けよ」とか「恨み買ったのはあんたじゃねーの」とか言ってやりたかったが、相手が長老ではそういうわけにもいかない。 サイフォードは養老精神で声を掛けてしまった自分の迂闊さを呪いつつ、こうして黒魔法研究所に入ったわけであった。 「ま、長老連に恩を売っておくのも悪くないけどな」 「どうせ、やらしい夢でも見せられてるんだよ。そういうの、役得っていうんじゃない?」 サイフォードの言い訳に、リュンは口を尖らせてそんなことを言った。思わず噴き出しそうになるサイフォード。 「こんなとこで、そんなこというなよな」 「だってサキュバスだよ〜? 絶対、毎晩誘惑されてるって」 「まあ、そりゃ、あの年で毎晩じゃきっついだろうが……くくっ……」 笑いを堪えきれないらしい。 「しっかしお前、ちびっこのくせして耳年増だなぁ。そんなの誰に聞いた?」 「ちびっこゆーなぁ! ボクはちゃんと成人してますぅっ!」 そうは言っても、サイフォードの胸にやっと額が当たるような身長では、説得力もないというものである。 「ふんっだ」 リュンが拗ねたようにサイフォードの鎧を軽く叩いた。 それを合図にして、サイフォードが腰に提げた剣を引き抜く。 「行くぞ」 「りょーかい」 黒魔法研究所の最深部──。 実際には元研究施設であり、人が暮らしていた場所なのだから、どこが「一番深い」ということはないのだが、エリアとしてはそう思える場所がある。 それが、最下層のほぼ中央に位置している不思議な形状の部屋だ。 「先に部屋の入り口まで行け! そこから援護してくれりゃいい!」 人の三倍はあろうかという巨大な蜘蛛たちを相手にしながら、サイフォードが叫ぶ。 彼のほぼ真後ろにいるリュンは頷くと同時に、くるりと振り返って駆け出す。 「おっけー! こっちに来させないでよ!」 「部屋には入るなよ! 扉も開けるな!」 もう一度そう叫ばれて、リュンは前方にある大きな両開きの扉に視線を走らせる。扉の隙間から異様な気が流れ出ているように感じた。近付きすぎても危ない。 「じゃ、この辺で!」 走る姿勢からタンッ!と床を蹴って中空でくるりと体を回し、正面の視界にサイフォードと蜘蛛たちを入れた瞬間、リュンはつがえていた矢を放った! ──シュッ! サイフォードの耳が空気を切る音を捉えるのとほぼ同時に、彼の横から迫っていた巨大蜘蛛が横薙ぎに倒される。リュンの放った矢が蜘蛛の頭部を射抜いたのだ。 「さすが、やる」 見事な腕に感嘆の声を出しつつ、サイフォード自身も素早い動きで剣を振るう。 巨大蜘蛛が振り上げた二本の前足をその関節部分から切り落とし、返す勢いで顔を両断。続いて左から迫った蜘蛛の攻撃を盾で受けながら、左足を引いて半身下がり、受け流す。バランスを崩して横腹を見せる蜘蛛の胴体を、大喝を上げながら真っ二つにした。 その動きは荒々しい中にも洗練されたものがあり、まるで吹き荒れる風のようだ。 ヒューマンの騎士たちと、サイフォードたちダークエルフやエルフの騎士たちとの違いがあるとすれば、この体捌きだろう。彼らはその動きによって発生する力を、攻撃と防御の双方に利用しているのだ。 「さすがだけど! きりがないよ、サイフォード!」 援護の矢を放ちつつ、リュンが叫ぶ。後方にいる彼女には、サイフォードの奥に見える暗闇から、さらにこちらに向かってくる巨大蜘蛛たちの姿が見えていた。いったいどこにこれだけの蜘蛛が隠れていたのか。 リュンの声にサイフォードも視界の端に新手の蜘蛛たちを捉え、小さく舌打ちした。 「よし、駆ける! 部屋に入るぞ!」 「わかった!」 リュンが応じた声を合図に、サイフォードは背後に回り込もうとしていた巨大蜘蛛に向かって駆け出す。 蜘蛛が大きく前脚を振り上げた瞬間、彼は自分の体を低くして、太い枝のような蜘蛛の脚の間をスライディングの要領で滑り抜けたながらその脚を切り払った! 片側の脚三本を失い、鳥類のような甲高い声を上げつつ倒れる巨大蜘蛛。 滑り抜けたサイフォードは素早く立ち上がり、リュンの待つ中央部屋への通路に向かって駆け出した。そこではすでに、リュンが扉の前に待機している。 「──って! 援護しろよ、お前わ!」 「え?」 当然、何の障害もなくなった巨大蜘蛛たちは、一団となってわしゃわしゃとサイフォードを追い掛けているわけで。 「え? じゃねぇーっ!」 「!?!」 絶叫しながら力の限り走るサイフォード。 振り向いたリュンには、その光景が百鬼夜行か地獄絵図に見えたり見えなかったり。 「だぁー! とにかく扉開けろ、扉!」 「あぅあぅ!?」 「早くしろおおおおおおおおおっ!!」 サイフォードの怒声に押されるように、小さなリュンが大きな扉を開く。 一人が体を横にしてようやく通れるほどの隙間ができたとき、サイフォードがリュンの腕を掴み、猛スピードでそこを駆け抜けた。 ──どバタンっ! 入る同時に扉を蹴って閉めるサイフォード。自分の身長の二倍はあろうかというこの扉を、片足で閉じることができたのは、火事場の馬鹿力というやつだろうか。 「っはぁはぁはぁ……っ」 「……」 「こ、こんなところで……一気に疲れ……るとはな……」 「……」 ずるずると扉に背を預けてサイフォードが座り込む。その隣ではリュンが放心したようにぼーっとしている。 「……お前さ」 呆然としているリュンの横顔を苦々しく見ながら、サイフォードが口を開く。リュンがぼーっとしたままの顔を彼に向けた途端、サイフォードの中で何かが切れた。 「もうちょっと頭使えって言っただろ! なんであの状況で先に退いてるんだ!?」 「っ! だって部屋に入るって言ったじゃないか! 退くでしょ、ふつう!」 「はぁ? ああいうときに援護しなくて、なんのための弓だ! 弓兵は撤退援護が役目だろーが!」 「ボクがそんなこと知ってると思ってんの!? キミと組むまでパーティーなんてやったことないって、言ったじゃないかっ!」 「威張って言うことかぁ! お前はマスターからなんも習ってないのか!? それともエルフのマスターってのは、戦術の“いろは”も教えられないダメ教師なのか!? ん? ん?」 「全部独学だよっ! だから何度も知らないって言ってる! バカだろ、キミ!」 「自分の無知を棚に上げて、バカとは何事だ、バカとは!」 「同じことを何度も言わせるからだよ!」 「それはこっちのセリフだっ!」 「なにおーっ!」 『……そろそろ出ていってもいいかしら?』 「!」 薄暗い広大な空間に、ぼうっとした青い光が広がっていく。よく見るとそれは、大きさの違ういくつもの円が重なったような、この部屋の床から発せられていた。 ところどころひび割れ、欠けているその床のほぼ中央といったところに、いつの間にか一人の女が存在していた。無論、ただの女ではない。 コウモリの羽によく似た背中の翼。エルフのように先端の尖った耳。青白い肌。そして、妖艶としか言い表せない整った美貌。──サキュバスである。 「ようやく登場する切っ掛けができたわ」 姿を現したサキュバスは、疲れたような表情でそう言って、悩ましげなため息一つ。 「ひとの住処に入り込んできて、よくもまあそれだけ騒げること……」 「すまん。半ば目的を忘れてた」 「ボクも……」 軽く片手を上げて謝るサイフォードと、消沈してうなだれるリュン。 なんで謝ってるんだろう、自分──という疑問も湧かないではない。 「ふん……随分と仲が宜しいのね」 サキュバスはそう呟いて、気を取り直すかのように背中の翼をばさりと舞わせた。 「そーゆーの見せられると、少し妬けるわ……」 呟いたサキュバスの紅い瞳が、ゆらりと怪しく揺らめく。 ──ぞくっ。 サイフォードとリュンの背筋に、今まで感じたことの無いような悪寒が走る。恐怖とは違う感情。例えるなら、性的興奮にも似た感覚に襲われた。それでいて、まるで射竦められたように、二人とも動くどころか武器を構えることすらできない。 「見たところ冒険者のようだけれど……恋人、というわけではなさそうね」 サキュバスは嫣然とした微笑を浮かべながら、ふわりと浮き上がって立ち尽くす二人の前に舞い降りる。その紅い瞳は、はっきりとサイフォードを捉えていた。 「フフフ……」 (──まずいっ!) サキュバスの右手が自分の頬に伸ばされるのを目だけで追いながら、サイフォードは我知らず全身から汗を噴き出させていた。 視線に魔力でもあるのか、この期に及んでも彼の体は指一本動かすことができない。次に何を仕掛けられるとしても、かなり絶望的な状況であるのは間違いなかった。 それはリュンにしても同じことで、サイフォードに絡み付くように接近するサキュバスの様子を、視界の端で捉えているのがやっとである。 (な、何するつもり、あいつ〜!) サイフォードの身を案じてというより、微妙に別の理由で歯噛みしている自分には、気が付いていないようだが。 動けないサイフォードに、サキュバスはしなだれかかるように体を寄せる。視線は常にサイフォードの瞳を捉え、またサイフォードもサキュバスの瞳から目を逸らすことができなくなっていた。 「さぁ、たっぷりと楽しみましょう。あの子に遠慮することはなくてよ」 「──っ!」 サキュバスの囁きと共に、サイフォードは強烈なめまいに襲われる。 「そう。そのまま私に委ねなさい。楽しい夢を見せてあげるわ。楽しくて気持ちのいい夢をね……」 まるで恋人に囁きかけるような甘い声が耳に響くたび、サイフォードの思考が溶かされていく。あるいは、母親が幼子を寝かしつけるために口ずさむ、子守歌のように。 そのサイフォードの変化は、リュンにも解った。彼の瞳が徐々に光を失い、その端正な顔から感情や生気が消えていく様がありありと見て取れた。 「ちょっと! 何やらかしてるの!」 堪らず口を動かし、それが言葉になったことに少々驚いたものの、今はそれどころではない。 鋭い視線でサキュバスを睨み付けると、彼女の方も意外そうに自分を見つめていた。 「たいした精神力ね」 「んなことより、サイフォードに何してるのか訊いてるの!」 「フフ……彼を夢の世界に招待したのよ。魂までとろけるほどの快楽の世界にね」 「なっ──!?」 妖しく微笑むサキュバスの言葉に、顔を真っ赤に染めて絶句するリュン。その小さな全身が小刻みに震え始める。 その反応はサキュバスをいっそう喜ばせたようだ。 「妬かなくていいのよ? あなたもちゃんと招待してあげるから。身も心もたっぷりと快楽に溺れさせてあげる。──そう、命が尽きるまでね」 嫣然とした笑みは悦に浸っているようになり、初々しい反応を見せるリュンをさらにいっそう追い詰めるための言葉を紡ぎ出す。 煽られたリュンは当然サキュバスの言葉に耳まで真っ赤にして、恥じらいを露わに…… 「起きろバカぁっ!」 サイフォードの頭を力いっぱい蹴り飛ばした。 「ごあっ!?」 げんっ、ごんっ、ごしゃしゃ! なかなか派手な音を立てて石の床に叩き付けられたサイフォード。重装備ナイト。 「なっ!? え? ちょっ……」 抱きついていた男をいきなり蹴り飛ばされて、目を白黒させるサキュバス。 「はぁはぁはぁ……」 そして、肩を怒らせ目を逆三角形にして、荒い息を吐くリュンさん。ちびっこエルフ。 何か不自然な体勢で倒れているサイフォードを「びしりっ!」と指差して、 「目ぇ覚めたっ!?」 見事に決まりました。 指を差されたサイフォードは、その言葉に反応するかのように、わずかに体を動かし、 「……サボテンが花を付けている……」 「…………」 てくてくてく。 どすっ! 「正気に戻った?」 「……鳩尾に爪先蹴り入れることはないだろう……一瞬呼吸が止まったぞ」 それ以前に、一瞬違う人になっていたようだ。 蹴られた鳩尾と頭を押さえながら、サイフォードはよろよろと立ち上がる。何とも情けない姿だが、それを見たリュンは嬉しそうに顔をほころばせた。 そんな二人を唖然として見ていたサキュバスは、ようやく震える唇を堪えながら声を絞り出す。 「な、なぜ……どうやって私の《視線》から抜け出した……!?」 自分に向けられたであろうその言葉に、リュンは軽く顔だけを振り向かせ、続いて考え込むように眉根を寄せた。 「ん〜……よくわかんないんだけど。ピンチだっていうのに、一人で楽しい夢を見てるかと思うと、無性に腹が立って。それで、気が付いたら蹴っ飛ばしてた」 「俺だってピンチだったんだけどな……」 まるで自分だけ楽をしていたかのように言われて、サイフォードは不満げに呟く。 しかしサキュバスの方は、不満どころの騒ぎではない。 「ばかなっ! そんないい加減なことで……」 絶対の自信を持っていた、今まで幾人もを葬ってきた自分の術が、「腹が立った」という理不尽な理由で破られたのだ。並大抵のショックではない。よろよろと足がもつれるように下がっていく。 「このメルケニス、これほどの屈辱を受けたのは初めてだわっ!」 「そんなこと言われても……」 「お前たちには、最もむごたらしい死を与えてあげる!」 ごうっ! サキュバス──メルケニスの魔力が膨れ上がった。怒気とも取れるそれは、突風のように辺りの空気を払い飛ばす。 「うっわぁ……めちゃくちゃ怒ってる?」 「だろうな。──やるぞ!」 サイフォードは剣と盾を構え、リュンは後ろに下がって弓に矢をつがえる。 「我が魔力の恐ろしさ、思い知るがいい!」 両手の爪を鋭い刃に変えて、メルケニスは二人に襲い掛かった! ──バヂィッ! メルケニスの爪から放たれた幾本もの細い電撃を寸前で飛び退いて躱す、サイフォードとリュン。 短い浮遊感の後、膝から着地した瞬間にリュンはつがえていた矢を放つ。正確にメルケニスの頭を狙ったその矢は、しかしはるか後方の石壁に突き刺さった。 信じられないような高速でメルケニスが躱したのだ。 「翼は伊達じゃないのよ!」 「くぅっ!」 背中のコウモリの羽をはばたかせ、天井までさしたる高さもないこの部屋の中を、自在に飛び回るメルケニス。その動きは円を描くような軌道も取れば、直角に曲がることもある。まさに変幻自在だ。 おそらく翼だけでなく、彼女自身の魔力によっても飛翔しているのだろう。 リュンは続けざまに二本の矢を放つが、重力を無視したメルケニスの動きに躱される。 「捉えられない! 速すぎるっ!」 「なら、こいつはどうだ!」 そのリュンの前に立ち、サイフォードは剣を水平に構えて精神を集中させた。 「Those who carry death. Take my enemy's power!」 囁くように唱えられた呪文が完成すると同時に、メルケニスの全身を黄昏色の光が包み込み、それが胸の辺りを支点に収束する。 「うぐっ!?」 メルケニスが苦しげに呻き、収束した光は一つの玉となって飛来し、サイフォードの体に吸い込まれた。 「ドレイン! 舐めた真似をっ!」 「ダークエルフは優秀な魔法戦士だということを、忘れないでもらいたいな!」 メルケニスは歯噛みしてサイフォードを睨み付け、一筋の閃光のように空中から彼に襲い掛かる。サイフォードはその一撃を左腕の盾で受け止めた。 ミスリル製の盾の表面が、メルケニスの研ぎ澄まされた刃のような爪によって削られる。その感覚にサイフォードはぞっとした。 「しかし、魔術師でない貴様は、こうして隙を与えなければ呪文を詠唱できまい!」 「そうだが、どうかなっ!」 右手の剣を盾の下から掬い上げるように振り上げる。それをメルケニスが躱すのことを承知して、足を滑らせるようにして後退した。 「なにっ!?」 「そこっ!」 サイフォードの剣を避けてわずかに宙に浮いたメルケニス目掛け、リュンの矢が放たれた! ──ドスッ! 狙い違わず、その矢はメルケニスの翼の付け根に突き刺さった。いつの間にかメルケニスの背後に回り込んでいたのだ。 「ぐああっ!?」 低い距離を落下して、それでも何とか膝で地に着くメルケニス。その瞬間を狙って、リュンはさらに一矢を放つ! 「なめるなぁっ!」 回避しきれないと見たメルケニスは、矢が当たるのも構わず右腕を背後に振って、その爪先から電光を迸らせた! 「きゃうっ!」 電撃に撃たれて仰け反るリュン。しかし彼女の放った矢も、メルケニスのもう一つの羽を貫いていた。 背中に走る二度目の衝撃に顔をしかめるメルケニス。そこへ、 「もらったァッ!」 一度後退していたサイフォードが猛然と接近し、膝を突いたメルケニスの首を目掛けて剣を水平に振り払った! ──ジャッ! 「ちぃっ!」 「くうぅっ……!」 メルケニスは咄嗟に後ろへ跳び、サイフォードの剣は避けきれなかった彼女の左足に深手を負わせる。 「舐めるなと言ったっ!」 ごあっ! メルケニスの口が裂けるように大きく開き、吠えるように発した《声》が衝撃波となってサイフォードを襲う! 「っ!?」 正面からまともに衝撃波を喰らい、ドンッ! と後ろへ吹き飛ばされるサイフォード。その背が壁に当たった瞬間、体中の骨が悲鳴を上げ、肺の中の空気を一気に吐き出させられた。彼の全身を覆う鎧も、さすがにこのダメージを吸収することはできなかったのだ。 「がはっ……!」 サイフォードの体は、まるでバウンドするように壁から剥がれ、崩れ落ちる。 「サイフォード!」 リュンは思わず駆け出そうとして、その足を止めた。 「ここまでのようね」 ちょうど二人を遮る位置にいるメルケニスが、リュンの前に立ちはだかる。翼と片足をやられては、さすがに最初のような素早さが無くなっているが、それでも普通に動けているのは、さすが魔物というところか。 「こう接近されては、得意の弓も使えないでしょう?」 「それはどうカナ……」 勝ち誇った笑みを浮かべるメルケニスに、リュンも負けじと顔を上げて不敵に微笑む。 その挑発にメルケニスは目を怒らせ、無言で右手の爪をリュンに向かって突き出した! それを待っていたかのように、リュンの右手も素早く動き、腰の後ろに差していた短剣を引き抜く! 「奥の手は最後まで取っておくもんだよ!」 ──ざしゅっ! メルケニスの突き出した右手がリュンの頭を捉える寸前、その手首を短剣が貫いた! 「小賢しい真似をっ!」 怒りに燃えて左手を振り上げるメルケニス。 しかしリュンは突き刺した短剣をそのままに、後ろ返りの要領で素早く後方に一回転。 そして体が起こしながら弓に矢をつがえ、再び膝立ちの姿勢になったときには、メルケニスに照準を合わせていた。 「言っただろ。奥の手は最後までってね!」 「っ!?」 空を切った自分の攻撃から目を転じたメルケニスが見たものは、限界まで引き絞られた弓から放たれる一本の矢だった。 ズドンッ!! 「ぎゃあああああっ!」 まるで大砲でも放ったかのような重い音が室内に響き、メルケニスの絶叫がそれにかぶせられる。 リュンの渾身の力を込めて放った矢は、狙い違わずメルケニスの心臓を貫いていた。 だが、 「おお……おぉのれぇーっ!」 「ぅえっ!?」 怒りの咆吼を上げるメルケニスの《声》が、リュンに向かって放たれる! 咄嗟に横に転がり回避するリュンだが、体勢が悪い。メルケニスはその動きを予測して、すでに次の攻撃を構えていた。 「逃がすかっ!」 短剣が刺さったままの右手をかざし、そこに魔力が生み出される。 (やられるっ……!) リュンの思考がそう閃いた刹那、 ──ザシュッッ! 「ごふぉっ!?」 メルケニスの薄い唇から鮮血が溢れ、上体を反らし、その暗色の瞳が大きく見開かれた。 彼女の豊満な胸の間から突き出した、真紅に彩られた鋭い切っ先。──見開かれた瞳がそれを驚愕を持って見つめる。 「主人公を忘れてんじゃねーよ……」 背後から聞こえたその低い呟きに、メルケニスはいまだ驚愕から覚めぬままに朧な動きで振り返る。 そこには、ひび割れた壁に背を預け、立つこともままならないサイフォードが不敵な笑みを浮かべて座っていた。その手から放たれた長剣が、メルケニスの背中から心臓を確実に捉えて貫いたのだ。 「バカなっ……!」 動けるはずがない──。 それは、魔物として人間やエルフなどよりも強い力を持っている者たちの、あるいは驕りかもしれない。 「ちびっこ!」 「わかってる!」 絞り出すように叫んだサイフォードの声にリュンが応える。 残った体力を振り絞り、全身のバネを利かせて立ち上がると、メルケニスに突き刺さった剣を両手で握りしめて、それを勢い良く上へと振り上げた! ズバンッ!! 「ぎゃああああああああああっ!」 ──どこにそんな力がっ!? それが、数百年という時を生きたサキュバスたるメルケニスの、最期の思考であった。 「…………勝った……?」 呆然とした様子でそう呟いた後、リュンは振り上げていたサイフォードの剣に引っ張られるようにして、その場にへたりと座り込んだ。 「ようだな。どうにか……」 逆に、叩き付けられた壁にもたれるようにしながらも立ち上がるサイフォード。全身の骨が悲鳴を上げているように痛むが、それを気力でねじ伏せて、どうにかリュンの傍まで歩いていく。 「ほら、立てよ。帰るぞ」 勝利の余韻に浸る間も、傷ついた体を休める間も与えられない容赦のない台詞が投げかけられる。 しかしリュンは、いまだにぼーっとした顔をそのサイフォードに向けた。 「へ?」 「帰るんだよ。目的を達成した以上、こんなとこに長居はゴメンだぜ。モンスターどもが血の匂いに集まってくるぞ」 「え? で、でも……って、キミ! 頭から血でてるじゃないか!?」 「──ん? ああ。吹っ飛ばされたときに、壁で割っちまったらしい」 額を流れ落ちてくる血を煩わしげに手の甲で払うサイフォード。たしかに少しは痛むが、見かけほどの重傷ではないと解る。 「やっぱちょっとくらい視界が悪くても、ヘルムも付けてくるべきだったなぁ。いい経験になった」 「なにお気楽な口調で言ってんだよ! 早く止血! 包帯、包帯!」 見ているリュンの方が、大慌ててで自分のバックパックを拾いに走る。 ばたばたとバックパックの中を漁るリュンの背中を眺めながら、サイフォードは苦笑と共にため息1つ。彼女が放り出した自分の剣を拾い上げた。 「おーい、そんなの戻ってからでいいから、とっとと帰るぞー」 「バカっ! 頭の怪我ってのは意外と……」 思わず振り向いて抗議しかけたリュンだったが、剣を鞘にしまうサイフォードの姿に、その口を開いたまま言葉を止めた。 部屋の中に満ちる青白い光を背に立つサイフォードの、ダークエルフ特有の青褐色の肌色をした顔を流れていく真紅の糸──。 任務を果たした達成感か、死線をくぐり抜けた安堵感のためか、彼の表情は穏やかな笑みを浮かべており、その横顔に、まるであつらえた装飾品のように一筋の血が流れる。 それが、なぜだかとても美しく見えて、リュンは魅入られたように息を飲んでしまったのだった。 鞘に剣を収めたサイフォードが、陶然とした様子のリュンに気が付いて振り向く。 「どした? ちびっこ」 「……え、あっ!? な、なんでもないっ!」 夢から現実へ引き戻されたように、リュンは慌てて背中を向けた。頭が沸騰したかのように熱くなっているのが解るから、それを見られないために。 そんな彼女の様子に、サイフォードは何かピンと来たらしく、不敵な笑みを浮かべて小さな背中とそれを隠す藤色のポニーテールを見やる。 「さては、お前……」 「な、何さっ……」 「今度は傷薬を忘れたんだろ?」 「……そ、そーだよっ! だから早く帰って、お医者さんとこへ行くよっ!」 背中を向けたまま、すくっと立ち上がり、まるでマリオネットのような、ぎくしゃくとした不自然な動作で一枚の巻物を広げる。 それを背中越しに見ていたサイフォード。ふと何かに気が付いて、慌ててリュンの肩に手を掛けた。 「お、おいっ。それ……」 「──え?」 リュンがためらいがちに振り向いたその瞬間、彼女の姿は光の柱に包まれて消えた。 「……」 何とも言えない表情で、ひとり、何とも言えない空気を味わってしまうサイフォードくん。外見年齢二十歳(くらい)。 「エルフがここで『帰還スクロール』って、なぁ……」 リュンの肩に掛けていた手を返して、じっと見つめてしまう。 「……ま。こっちの村で待つとするか」 ふと、額を伝う血が目に入り、それを指先で払う。 「なんたって、こっちは怪我人だからな」 誰に言うでもなく可笑しそうにそう呟いて、サイフォードもまた、帰還用の巻物を開くのだった。 「もらった報酬は、俺が七で、お前が三な」 「な、なんで!」 「身長差に比例した分配だ」 「こ……殺してやる……っ!」 「冗談だよ。お前、まだ金の管理が甘いからな。パーティー資金として、俺が管理しといてやるんだ。わかったか?」 「え……それって……」 「ほら、とっととグルーディオに戻るぞー」 「……うんっ」 |
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