追跡の手は速く、そして厚かった。 「囲まれたかな……」 「判らない。けど、少なくとも先回りはされたらしい」 風の精霊の声を聞き、セリオンが答える。 メリスはふうっと白い息を吐いた。 「たった二人に、大げさ」 陽光を反射する雪に地面は覆われ、そびえ立つ緑の木々も白い化粧を施された大地。そしてその木々の間からは、今も小さな雪の粒が舞い降りてきていた。 二人は追っ手から逃れるため、木々の深い山に分け入ってきたのだ。 「それだけ俺たちのやろうとしていることが、凄いことだというわけだ」 呟いたセリオンの息も白い。しかしそれとは逆に、声音は沈んだものだった。 「すまない、メリス。冷静に考えれば、きみは砦に残っていても良かったんだ。俺だけが抜け出したところで、きみに危害が及ぶわけはなかったのに……」 「そんなことないよ」 悔しげに表情をゆがめるセリオンに、メリスはいつものように笑顔を見せた。そしてふわりとその両腕をセリオンの首に回し、頭を抱えるようにして抱き締める。 「セリオンがいなくなったら、悲しくて、寂しくて、死んじゃうかもしれない。セリオンがいない私は、もう私じゃないの。セリオンがいてくれるから、私もいられる。もうそうなっちゃったの。そうなってるんだよ」 彼女の言葉が、その体温と一緒に心に染みていく。セリオンは思わず彼女の体を掻き抱いた。 メリスの顔が柔らかい微笑を作る。 「だから一人にしないでね。泣いちゃうよ?」 「ああっ……!」 何も考えずに彼女の手を引いた自分の愚かさを後悔しながらも、共にいたかった気持ちも抑えられず、思わず謝罪の言葉が口をついて出ていた。 しかし、彼女も同じ気持ちだったのだ。 それが解ったとき、救われたような気分よりも、心が繋がっていると実感できた喜びに胸が震えた。 嬉しい……。 ただひたすらに、それだけだった。 ──!? その気配を感じ取ったとき、セリオンはメリスを庇うように構えた。 複数の人間が放つ、殺気。 それが近付いてくる。 雪を踏みしめる音。木々の枝を揺らす音。そして、武具が鳴らす音。 エルフであるセリオンには、雑音のように聞こえるそれらの音の判別と、そこから類推できる相手の数までが分かった。 彼らの前方に、半包囲するように二十名。 メリスが予想したとおり、やはり彼らが逃げ込んだこの山そのものが、すでに囲まれていたようだ。 セリオンは歯を食いしばるようにして小さく呻く。 その時、 「そろそろ頃合いかと思い、出てこさせてもらった」 重厚感のある男の声が、二人に向かって投げ掛けられた。 それとほぼ同時に、二人の視界に十人ほどの人間が木々の間から姿を現す。 「覚悟はできたかね?」 声は、中央にいる立派な体格の男から発せられていた。その男だけは他の兵士たちとは違い、見事な装飾を施した鎧とマントを纏い、ミスリル銀をあしらった鞘の剣を腰に提げ、堂々たる足取りで近付いてくる。 その頭上には、鎧やマントとは不釣り合いな、草を編んで作った冠が乗っていた。 「王……様……」 メリスの口からその言葉が漏れる。 「なにっ!」 セリオンは驚いてメリスを振り返り、次いで再びその男に振り向く。 「ヒューマンの王……あなたが!?」 「いかにも。余……いや、私がヒューマン族の王だ、エルフよ」 ヒューマンの王は、その声に見合う厳格な顔を一つ頷かせ、十歩ほどの距離を置いて立ち止まった。 その左右にずらりと並ぶ、兵士たち。剣を持つ者、槍を構える者、弓に矢をつがえている者、それぞれにどこか緊張した面持ちだ。 セリオンとメリスは、無意識の内に少しだけ後退っていた。それは兵士たちが構える武器のせいでもあるだろうが、それよりもヒューマンの王が放つ、人の上に立つ者としての風格がそうさせている。 しかし同時に、王の瞳に宿る、他を愛しむような優しげな光も見逃してはいなかった。 それもまた、王という人種なのだろう。 厳格だが穏やかさも併せ持つその表情で、ヒューマンの王は、しかしあくまでも堂々とした姿で2人に語りかけた。 「私が自ら追ってきたことは、それだけで事の重大さを量るものとなろう。即ち、我らヒューマン族の存亡が掛かっている」 セリオンの背に庇われているメリスの両手が、ぎゅっと彼の服を掴む。彼女の気持ちを感じ取りながらも、セリオンは油断なくヒューマンの王を見据えた。 「しかし、私とて人の心を知る者だ。君達の気持ちはよく解る……などと烏滸がましいことは言わぬが、その想いは理解できる。だからこそ、私が追ってきたと思ってもらいたい」 「なにを……?」 「もし、君達がエルフ族に我々の計画を漏らさず、このまま何処かへと立ち去るのならば、我々は君達の今後に干渉しない。約束しよう」 『──!』 セリオンとメリスは、同時に息を呑んだ。 それはつまり、二人を見逃すということだ。ヒューマンの反乱を黙認する見返りとして。 「どうかね?」 王の瞳に、嘘はない。 少なくともセリオンにはそう思えた。 しかし、だからこそ解らなかった。 「……なぜ」 「うん?」 「なぜ、今さら反乱などとっ!」 吐き出すように言ったセリオンの言葉に、ヒューマンの王は苦しげに顔をゆがめる。 セリオンは構わず続ける。 「俺は、ヒューマンは弱くてずる賢く、そして卑劣な種族だと思ってこれまで生きてきた。そう教えられてきた。けど、メリスに出会って、ヒューマンと俺たちとの差なんて、ちっぽけなものだと知った。あなたもそうだ。ヒューマンにだって、立派な人物はいる。エルフやオークがそうであるようにっ! なのにそのあなたがなぜ、こんな悪辣な手を……」 「……全ては、我が種族のためだ」 セリオンの激昂を遮るように、重い声が森に響く。 「この世界の覇権を握る者が、オークであろうとエルフであろうと、我々ヒューマンの置かれる状況は変わらぬ。これまでがそうであったように、他の種族から蔑まれ、虐げられ、物のように扱われる。そのために多くの同胞たちが命を削り、落としてきた」 「──っ!」 「エルフである君には解らぬだろう。いや、我々でさえも、すでにそれが当たり前のことのように思っていた。──だがっ! 巨人たちの落日! エルフたちの驕り! オークたちの暴戻! それらが我らの目を覚まさせたのだ!」 セリオンのように激昂はしていない。しかし、王の声には力が込められてた。それは周りの兵士たちにも伝わり、彼らの表情にも自信と力強さが宿り始める。 「君が言ったように、我らと他の種族の差など、些細なものだ。たしかに我らが与えられたものは少ない。しかし、ヒトとしての能力は変わらぬのだ。ならば我らが生き残るためには、我ら自身が世界の覇者になるしかない! これ以上、我が種族の命を塵芥のごとく使われるわけにはいかぬのだ!」 そこには確かに、怒りが込められていた。 失った……いや、失わされてきた命の多さと重さを、王は知っているのだろう。 命には、それぞれに想いがある。幸福を望み、喜怒哀楽を表すヒトの想いが、命なのだ。 そのことを王は理解している。だから、怒っているのだ。 王の言葉を聞くうち、セリオンもまた苦渋に顔をゆがめる。 王の言っていることが解るから。王の気持ちが痛いほど伝わってくるから。 しかし、それでも。 「……俺は、長老たちにこのことを伝える!」 まっすぐにヒューマンの王を見据えて、セリオンは決然と言い放った。 「あなたが同族を想うように、俺も仲間たちを見殺しにはできない」 迷いがないわけではない。だが強い意志に輝く瞳に、ヒューマンの王は静かな微笑みを見せた。 「解った。……君は、どうする?」 王の視線がセリオンの背後にいるメリスに向けられる。 王の言葉を聞いている間、ずっと握り締められていたセリオンの服から、ふっとその感覚が消える。 セリオンはメリスに振り向いた。 「私は、セリオンと一緒にいます」 そこには、いつもの太陽のような笑顔があった。 セリオンは目を丸くする。 ヒューマンの王はそんなメリスに苦笑するようにして、問いかけた。 「同族と戦うことになるが、それでもか? 君も仲間たちを守るために、この戦争に志願したのではないのかね?」 「はい。最初はそうでした。でも……」 ちらりとセリオンに視線を向ける。まだ目を丸くしたままの彼に、小さく笑って、彼女は顔をほころばせた。 「セリオンが好きだから」 それは何度も聞いた言葉。そしてこれからも聞きたい言葉。 とても自然で、とても彼女らしい素直な感情。 「そうか」 王は優しく微笑み、それだけを言った。 そして、右手を水平に持ち上げる。 ──ドスッ! 一瞬の出来事。 それは、二人の背後から放たれた無数の矢が、彼女の背中を貫く鈍い音。 セリオンの目が見開かれる。表情が強ばる。 鮮血が細い糸のように舞い、彼女の体がぐらりと大きく後ろに傾ぐ。 ごぼっ。 彼女の口から血が泡のように噴き出した。 「メリスっ!」 膝から崩れ落ちる彼女を、セリオンが両腕をかざして支える。 背中に突き刺さった幾本もの矢を伝い、その手に彼女の血が流れ落ちてくる。 「メリスっ!」 今まで出したことがないような大声で名前を呼びながら、彼も膝を付きながら必死に彼女の体を支える。 彼女が顔を上げた。陽光のような緋色の髪が、口から溢れる血で顔に張り付き、その顔も徐々に血の気を失っていく。それなのに、笑顔を見せて。 「セ…リ…オン……」 「喋るな!」 気が付けば、彼は涙を流していた。 両手に掛かる重みは徐々に増していくのに、そこに感じる温もりは同じ速さで失われていく。 視界を曇らせるほどの涙が溢れる。止まることなく。 「セリオン……ダメ…だよ……あなた…は……」 「すぐに治す! こんな傷くらい、治してみせる!」 呪文を唱えようとするセリオン。そんな彼に、メリスは微笑んだまま目を伏せてゆっくりと首を振るようにした。 「駄目じゃない! 絶対に……!」 声が震えて呪文が紡げない。それでも必死に唱えようとする彼の頬に、彼女の手がそっと添えられた。 まるで溢れる涙を掬うように、両手で優しく包み込む。 「好き……だよ……セリオン……」 小さく弱々しい声。 何度となく聞いたその言葉が聞こえたとき、彼女の両手は彼の頬から滑り落ちた。 「メリ…ス……?」 呼びかける。 二つの瞳は閉じられ、彼の腕の中に力なく項垂れる小さな顔。 「メリスっ!」 怒鳴るような声。それでも彼女の瞳は開かない。 そのことが、信じられなかった。 「メリスーっ!」 絶叫が雪に包まれた森に響き渡った。 哀しい声が。 そして、悲しい嗚咽が。 ──ざっ。 彼の背後に、人が立つ音。 わずかに顔を振り向かせるセリオン。その視界に、抜き身の剣を右手に提げたヒューマンの王の姿が映る。 王は、悲哀に満ちた瞳を彼に向け、そして剣を振り上げた。 「すまない」 ──ドッ! 突き立てられた剣は、違わず彼の心臓を貫き、その切っ先が胸から飛び出る。 しかし、セリオンはすでに痛みを感じていないようだった。 驚愕もせず、苦痛に顔を歪めることもなく、剣が引き抜かれると同時に、静かな面持ちで崩れ落ちた。 両手に抱えた彼女を気遣うように。背中の矢がこれ以上、彼女を傷つけないように。ゆっくりと彼女の体を支えたまま──。 地面に降り積もった雪が舞い上がる。 ──好きだよ、セリオン。 思い出すのは、笑顔。太陽にように輝いていた笑顔。 ──どうしてかな。一目惚れかも。 幻の中でもその笑顔は輝いて。 彼のためだけに笑ってくれる。 ──よくわかんない。話してるうちに、気が付いたら好きになっていたんだよ。 「俺もだ……メリス……」 雪はゆっくりとその数を増やしていき、白い花びらで包むように二人の姿を隠していった……。 →エピローグへ |
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