「──人質など、取る必要もない」 あるいは眠るように薄く目を開き、優美とした姿勢で頬杖を付くヒシルローメが呟く。 あざ笑うかのようなその独り言に、傍らに侍る『空飛ぶ蛇』が首を傾げた。 「いかがなさいましたか?」 「本来であれば見下すべき者どもに侮られるというのは、おかしなものであるな。侍従よ」 「は……」 何のことを言っているのか皆目見当も付かなかったが、侍従たるこの魔物は、主に対して大人しく頭を下げることが自分の仕事であると理解している。だからこの時も、その意味を問うことはなかった。 肉感的な女性の上半身と、大蛇のごとき下半身を持つその巨躯を、凭せ掛けていた大樹から起こし、ヒシルローメはかがり火の揺れる瞳を足下の小さな命たちに向ける。 「また一つ、さだめの時が回るか。母なる女神の加護と、我が君の祝福があらんことを」 刹那── 深閑の闇を切り裂いて、戦士たちの雄叫びが轟いた。 ひと息に樹木の間を駆け抜け、その広場へと躍り込んだバインが、必殺の一撃を放つ。 「先手必勝ッ!」 頭上で大きく振り回した槍に、雷にも似た『気』をほとばしらせ、驚愕で立ち尽くす大蛇のような魔物たちへそれを叩き付けた。 強烈な衝撃波によって鱗を切り裂かれ、体を屈し、武器を取り落とす魔物たちを、わずかに遅れて飛び出したカイナとゴーンガッドの槍が突き伏せる。 そして── 「か弱き者たちに炎の加護を」 魔法陣の中にいる子供たちを、アドエンの魔法が優しくも激しく包み込んだ。 「なにやつ!?」 ヒシルローメに侍る『空飛ぶ蛇』が、焦るような声を上げる。 その声に応じるように立ち並ぶ樹木の影から、草を踏みしめ、アドエンがもったいぶるように姿を現した。 「正義の味方だ」 「んな──っ!?」 蛇の口を大きく開けて絶句する侍従を、ヒシルローメが腕をかざして制する。その巨躯に似合わぬ静かな佇まいで、しかし圧倒的な魔の気を発しながら、パリバティの司祭はアドエンたちを見下ろし、口元を歪めた。 「っつーわけだから、悪人は大人しくやられてくれッ!」 そのヒシルローメに向かい、バインとカイナが槍を振りかざして突進する。 左右から迫る二つの穂先を、ヒシルローメは虚空から呼び出した長大な剣で、余裕を持って受け止めた。 「今だな」 「はっ!」 二人がその巨大な魔物の動きを止めている間に、アドエンとゴーンガッドは素早く魔法陣に駆け寄る。子供たちを庇うように仁王立ちするゴーンガッドの後ろで、アドエンは怯えてすくむ小さな子を二人、その逞しい両腕に抱え上げ、年長と思われる少女に振り向く。 「いまのうちに逃げろ。おまえが導くのだ」 そう言われた少女は、わずかなためらいを見せたものの、小さくうなずき返して立ち上がり、残る子供たちの手を引いて駆け出した。アドエンもその後に続く。 ──その光景を、二人の戦士に攻められながらも、ヒシルローメは微笑を浮かべながら見送っていた。 (見逃してくれた……?) 林の中へと駆けながらちらりと後ろを振り返ったアドエンは、その態度に眉をひそめる。 樹木の影に隠れるように抱えていた子供を下ろしたところへ、ゴーンガッドが合流した。 「ここで待つか、先に逃げるかは任せる。待っているのなら、邪魔にならないようにしておけ」 先ほどの少女にそう伝え、子供たちを任せると、アドエンはゴーンガッドに振り向いた。 「次の手に移る。バインたちが奴の相手をしている間に、あのちび蛇を潰すぞ。あやつを生かしておくと、厄介そうだ」 「心得ました」 うなずいたゴーンガッドと共に、再び林を抜けて飛び出していく。 バインの薙ぎ払うような一撃を受け止め、突き出されるカイナの槍を躱すヒシルローメが、その動きに目をやった。 「まずは、邪魔な翼を焼き切ってやろう」 呟いたアドエンがその魔力を解放し、長槍を構えたゴーンガッドが突進したその瞬間、 ──バヂンッ! ヒシルローメの剣を持たない左手が、侍従の前にかざされ、飛来した魔力を受け止めた。 「この者がおらぬようになると、いささか困るのでな」 「ヒシルローメ様っ!」 主の頭ほどの大きさしかない侍従が、感動したように瞳を潤ませる。 一方、その荒技には、さすがのアドエンも目を丸くして唖然とした。 「さすがはシーレンの眷属というところか……やるではないか」 「感心してる場合じゃねえ! だったら、二匹まとめて貫くまでだぜッ!」 怒鳴るように言ったバインが、侍従を庇って空いたヒシルローメの左側を狙って槍を突き出す。同時に、カイナがそれを剣で防がせないよう、右側から矢継ぎ早に穂先を繰り出した。 その同時攻撃は、この二人ならではの呼吸と、絶妙なタイミングだったといえよう。 しかし── 「そう。我らには女神の加護がある」 あざけるようなヒシルローメの呟きと共に、一陣の冷たい風がバインたちを襲った。それはあるいは、膨れ上がったヒシルローメの障気そのものだったかもしれない。 「なっ──!?」 「か、体が……っ!?」 その冷たい風が皮膚を撫でた瞬間、バインとカイナの動きが止まる。まるで全身を見えない氷に覆われたかのように、動かそうと思っても動かせなくなっていた。 二人を見下ろすヒシルローメは、かざしていた剣を下げながらも、楽しげに瞳を歪ませる。 「どうだ。我らが女神、シーレンの息吹に触れた感想は? 魂すら凍てつく心地であろう。おまえたちが感じているそれこそが、我らの母の御心、そのものだと知るがよい」 そのぞっとするような瞳の色と、まるで凍傷にかかってしまったかのように痺れて動かない体に、バインとカイナは絶望的な顔色を浮かべ、全身から冷や汗を吹き出す。 「しらんな」 その時、バインたちの後ろからアドエンが声を上げた。 「この程度の冷気で何が知れるという。私の魂を凍てつかせたいのなら、シーレン本人にでも出張ってきてもらおう」 ヒシルローメの瞳が、その姿を捉える。 アドエンの右手には、煌々と燃える炎の印が浮かび上がっていた。 「でなければ、我らが神、パアグリオの炎を凍らせることはできぬぞ?」 「……面白き娘よな」 冷徹な瞳で見据えるアドエンに、ヒシルローメはいっそう楽しげな呟きを漏らした。 冷気の洗礼を逃れたのは、それを防いだアドエンだけでなく、彼女に庇われたゴーンガッドも同じであった。 自分を押しのけるように前に出た彼女に、少し顔を上気させながらも唖然とするゴーンガッド。その彼にアドエンが振り向くことなく、声を掛ける。 「お前は主役だ。このようなことで行動不能になってどうする。……手はず通りにゆくぞ」 「は……はッ!」 我に返って大きく頷き、両手に持つ槍を握り締めた。 「さあ、司祭対決といくか」 アドエンはそう言うと、右手に宿した炎の印をヒシルローメに向けて放つ。しかしそれはあっさりと、長大な剣に散らされた。 「ふっ。おまえこそ、パアグリオを呼んできた方が良いのではないか?」 ヒシルローメがからかうようにそう言い、その剣をかざして突進してくる。 応ずるように、アドエンも身を低くしてパリバティの巨体へと突っ込んだ。 「呼べるものならそうしたいのだが……なっ!」 そして振り下ろされた剣をかいくぐり、人間でいえば太腿に当たる蛇の下半身に回し蹴りを喰らわせる。 わずかに顔を歪め、巨体を傾けさせるヒシルローメは、それでも左手に宿した闇色の魔力を、アドエンに向けて突き出した。 それを体の前に両手で構えた杖で受け止め、弾ける衝撃波の流れに逆らわず後ろへ跳び、アドエンは再びヒシルローメから離れる。 逃さじと、ヒシルローメが上体を伸ばすようにして、右手の剣を大きく横薙ぎに払う。 大振りなその一撃を、上半身を軽く反らせることで躱したアドエンは、体を起こすと同時に唱えていた呪文を解放した。 「こういう冷気もあるぞ」 その言葉に目を見開くヒシルローメだったが、悲鳴は思わぬところから上がった。 「ぎゃああああああっ!?」 全身を青く燃え上がる炎の包まれた彼女の侍従が、それを消そうとするように、宙に浮いたままのたうち回る。 そしてそこに、アドエンたちの戦いに紛れて接近していたゴーンガッドが、長槍を振り上げ、待ち構えていた。 「ひっ!? ヒシルローメ様ァッ!」 「おのれっ……!」 咄嗟に振り向き、眦を決してゴーンガッドに襲い掛かろうとしたヒシルローメだったが、その隙を逃すアドエンではない。 「戦いに生きる我らを相手どるには、いささか戦術に疎すぎだな」 再びヒシルローメがその姿を視界に捉えようとした瞬間、振りかぶられたアドエンの杖が強烈な一撃となって、パリバティの司祭の頭部に叩き込まれていた。 「ぐぅ……っ!?」 赤い皮膚を破かれ、黒い血が流れる顔を押さえながら、ヒシルローメの巨躯が傾ぐ。 「今だぞ」 アドエンの冷静な声に、侍従を地面に叩き伏せたゴーンガッドが力強くうなずく。そして長槍を肩に担ぐように振りかぶり、頭への衝撃で意識を朦朧とさせているヒシルローメに狙いを定めた。 「オォオオオオオオオッ!」 それはまるで獣のごとき咆吼であり、アドエンたちが初めて耳にする彼の感情の猛り。 思わず目を丸くするアドエンの前で、彼の手から放たれた長槍がヒシルローメの巨体に突き刺さる。 しかし、巨体が不規則に揺れていたからか、それともやはりゴーンガッドの腕前が未熟だったせいか、槍の穂先は狙ったはずの胸ではなく、そのわずかに下へ突き刺さっていた。 「お、おのれ……よくもッ……!」 ヒシルローメが憎々しげに呟き、いまだ焦点の定まらない瞳をアドエンに向ける。 「ただではやられぬ!」 「ぬっ──?」 その殺気に後退しようとしたアドエンだったが、攻撃は思わぬところからやってきた。ヒシルローメの持つ大蛇の半身が、地を削るようにして足下から襲い掛かってきたのだ。 「!?」 巨大な丸太を鞭のように振り回すその攻撃に、アドエンは反応が遅れて立ちすくむ。そしてその不気味な鱗に覆われた鞭が眼前に迫った瞬間、 ──ドンッ! ゴーンガッドの巨体が大蛇の半身を受け止めた。 「な……?」 全身の筋肉をはち切れんばかりに膨れ上がらせ、両腕でがっしりと大蛇の胴体を掴んでいるゴーンガッドに、アドエンは目を見開いて唖然とする。 確かに彼はオーク族でも屈強な体格の持ち主だが、あの一撃を一歩も退くことなく受け止めるとは── 「! そ、そうか! お前は……」 そのことに気が付いたアドエンに、肩越しに振り向いたゴーンガッドが照れたような笑みを浮かべた。 「あと一撃、入れて参ります」 言うや、さらに全身に力を込め、受け止めたヒシルローメの蛇の胴体を抱え上げ、大きく放り投げる。 「な、なにぃっ!?」 オーク族と比べても倍はあろうかというその巨体を、まるでちょっと大きな岩か木材でも投げるように飛ばされ、さすがのヒシルローメも驚愕の声を上げる。見ているアドエンたちは、驚きすぎて声も出ない。 巨木にぶつかり、その幹を折りそうなほどに歪ませながら叩き付けられたヒシルローメに、ゴーンガッドが雄叫びを上げて接近した。 アドエンとカイナには、それがオーク族に受け継がれる『戦いの声』であることが解る。 「もしかして彼は……」 「うむ。司祭は司祭でも、そっちの司祭だったのだな」 呆然と呟くカイナの隣に並び、アドエンがうなずく。 迫り来るオーク族の若者を、ヒシルローメは焦点の定まらない瞳で睨み付けた。 「何者だ。おまえは……!」 その言葉と同時に、苦し紛れの剣が振り下ろされる。 その剣を持つ右手首を、驚異的な速度で接近したゴーンガッドの左拳が打ち、剣の軌道を止めた。そして同時に彼の左足が、力強く大地を踏みしめる。 「私は『力の道』を極めんと欲する者、ゴーンガッド。我が兄、ゴーイェンの仇、この一撃で討たせてもらう!」 地を蹴り、軽々と跳び上がったゴーンガッドは、ヒシルローメに突き刺さっていた長槍の石突きを狙い、右足を突き出した。 ──ズドンッ! 「ぐっ……が……っ……!」 ゴーンガッドの放った蹴りは強烈な衝撃を伴って長槍を押し込み、ヒシルローメの心臓を貫いていた。 パリバティの司祭は大きく喘いで血を吐き、その巨体からも力が抜け落ちる。 そしてゴーンガッドは押し込んだ槍を蹴るようにして、器用に宙返りをしながら着地した。 その背中を見ながら、ヴェールに隠されたアドエンの口元が緩む。 「うむ……見事だ。ドゥカラ ラムチャル ゴーンガッド──」 口の中で含むように囁いたその言葉は、戦いの余韻を引くように、どこか熱い響きを持っていた──。 →エピローグへ |
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