草もまばらな湿った地面に両膝を付いてうずくまる彼を、アリシアリスが片腕を添えるようにして支える。その瞳には、赤黒い色をした禍々しい矢のような棘が、無数に突き刺さった彼の背中が映る。
「ちょ……ちょっと……」
 白いローブに広がっていく真紅の模様を凝視したまま、震える声で呼びかけた。顔から血の気が引いていくのが、自分でも解る。両足からは、力が抜けていくようだ。
 しかしその時、彼の体を支えている右腕を、彼の手が強く掴む。
「……」
 うなだれていた首が持ち上がり、彼が顔を上げた。そしていつものように、少し不敵で、自信に満ちた微笑を浮かべる。
「だ、大丈夫なの!?」
 少しだけ安堵しながら、慌ててコロを離して両腕で彼を支えた。しかし彼の顔から血色が失せていることに気が付き、思わず喉を詰まらせる。
 ようやく主人から解放されたコロは、跳ねるようにして、倒れているロキの元へ駆け寄っていった。こちらも苦しげにしながらも、どうにか体を起こしている。子狼は心配げに、大柄な同族の周りをうろうろと動き回った。
「と、とにかく回復魔法を使って……」
 そのアリシアリスの言葉に、ウィルフレッドは微笑を苦笑に変えながら、何も答えずにすくりと立ち上がる。まるで背中の怪我などないかのように、毅然と。
 アリシアリスの胸中に、再び不安の雲が広がる。
「無駄だ」
 それを見越したかのように、霧の中から低くくぐもった声が聞こえてきた。
 ソウルスカベンジャー──いや。それを操る術者が、彼の者を媒介にして語りかけてきたのだ。
 その表情に苦しげな色を滲ませながら、正面の死神を見据えるウィルフレッド。そして驚愕したように振り向くアリシアリス。
 二人に向けてソウルスカベンジャーの動かない口から、『人の肉声』が飛んでくる。
「《デススパイク》は肺にまで達している。今頃その男の喉は、血の泡で溢れていよう。喋ることもままならぬ。呪文を唱えることなど、できようはずがない」
 嘲笑するような声。しかしその内容は、アリシアリスの顔色を変えるのに十分だった。
「もっとも、その状態で立ち上がったことは称賛に値する。保って数分の命だろうがな」
「そんな……っ!」
 アリシアリスが目を見開いて振り仰いだウィルフレッドの表情は、死神の宣告を肯定するように、自嘲気味な笑みを浮かべていた。
 その表情が一瞬、険しく歪み、次に咳き込むように口元を抑える。彼の白い手の隙間から、背中のものよりもなお鮮やかな赤い液体がこぼれ落ちるのを見て、アリシアリスは息を飲んだ。
(このままじゃ──!)
 最悪の事態を予想してしまい、アリシアリスはそれを振り払うように首を振った。今は絶望している時ではないと、必死に頭を働かせる。
 だが状況は、その時間を与えてくれない。
「放っておいても消える命だが……その魂、我らの糧とさせてもらおう」
 再び『声』を発したソウルスカベンジャーが、すっとその姿を掻き消す。
 慌てて身構えたアリシアリスだったが、その時にはすでに、死神の鎌が目前で振り上げられていた。
「ウィルフ──ッ!」
 思わず目を閉じて叫んでいた。掴んでいた彼の腕を強く握り締めた。
 ──バシュンッ!
 しかし聞こえたのは、振り下ろされた鎌が肉を切り裂く音ではなかった。
「……調子に……乗らない……ように……」
 目を開けて顔を上げてみれば、不敵に微笑む彼の横顔。血の気を失った蒼白い顔に脂汗を浮かべながらも、なお余裕と自信に満ちているかのようなマリンブルーの瞳が、そこにある。
 そして死神は、その姿を消していた。
「この……くらいは……まだ…余裕だな……」
 まるで空気が抜けていくような、嫌な呼吸音の下から聞こえてくる声が、解りたくもない彼の状態を教えてくれる。アリシアリスは泣きそうな顔をして、掴んでいた腕をさらに強く握った。
 それに気が付いて、ウィルフレッドがふと彼女を見下ろしてくる。そして、いつものように優しく微笑んだ。
「やっと……名前……」
「何度でも呼んであげるわよ! だからもう喋らないで!」
 叫ぶように言った言葉に、彼は小さくうなずいてくれた。
 周囲の空気がざわめく。アリシアリスにも判るくらいに、殺気が満ちていく。敵が動き出したのだ。
 アリシアリスは急いで腰のポーチから、赤い液体が入った小さな瓶を取り出した。
「気休めにしかならないけど……」
 そう言ってウィルフレッドにその瓶を手渡す。それは小さな怪我程度なら治してくれる、少しばかり魔力の込められた薬だ。
 ウィルフレッドはもう一度彼女に微笑みかけてから、それを受け取り、ひと息に飲み干した。
「おのれっ! よくも我らのしもべを!」
 崩れた家屋や木の陰から、四人の男がアリスたちを囲むように姿を現す。いずれもフード付きの黒いローブを身に纏い、悪趣味な杖を手にしていた。
「教団の手先め! この手で始末してくれるぞ!」
 彼らが一斉に杖を構えたその時、霧を裂くような風が走り、一番近くにいたローブの男が薙ぎ倒された!
「なにっ──!?」
 驚愕の声が上がるなか、男を薙ぎ倒したロキがその死体にまたがったまま振り返り、牙を剥きだして低く唸る。
 そしてウィルフレッドは、小さく咳払いをして、口元に付いた血を腕で拭った。
「さぁて……反撃開始だ」

 ロキの体に刺さっていた棘は消え去り、その傷跡も綺麗になくなっていた。
「多少は喋りやすくなったな。サンキュ、アリス」
 言って、ウィルフレッドは彼女の小さな頭を優しく撫でる。背中の傷は消えていないものの、先ほどよりは随分と顔色も良くなった。
 アリシアリスは思わず顔を上気させる。
「と、当然よ! あなたはあたしを守るって言ったんですからねっ! 勝手に倒れられたら困るのよ!」
 その言い様にウィルフレッドは笑みを零す。彼女もいつもの調子に戻ってくれたようだ。
 それから彼は、ロキに威嚇されて立ちすくむローブの男たちを振り返った。
「俺を教団からの討伐者と知って、その程度の戦力しか用意していないとは、間抜けだな。自慢の玩具は、あれだけだったのか?」
 その言葉に怯むローブの男たちと共に、アリシアリスも彼を見上げて目を丸くした。
 ウィルフレッドは、常には見せない鋭い表情をその面に乗せて、彼らを見据える。
「ならば討たせてもらう。貴様らが実験と称して奪った、数多の命を鎮めるためにも──」
 怒気をはらんだウィルフレッドの声に、ロキが疾風となって男たちに襲い掛かる。そして彼自身も、アリスが見たこともないような速さで、正面の男に接近していた。
「この地で裁きを下すッ!」
 それはとても神官の動きとは思えない、鮮やかな攻撃だった。あまりの速さに反応することができなかったローブの男を、腹部へ拳を打ち込むことで黙らせ、うずくまったところに跳ね上げるような蹴りを放つ。
 そして、仰向けに打ち倒された男の胸を、荒々しく踏みつける。
「懺悔する必要はない。この地の犠牲者たちが、お前の魂を待っているぞ」
 冷たくそう言い置いて、今まで一度も抜くことがなかった腰に提げた小剣をすらりと抜き、有無を言わさず男の心臓に突き立てた。
 それとほぼ同時に、ロキが別の一人をその牙で葬り去る。
 残された一人は、あまりにも呆気なく倒された仲間に怒りを覚えるよりも、ウィルフレッドたちに対する戦慄を覚えた。
 引きつったような笑みを浮かべながら、じりじりと後ずさりを始める。
「こ、こんなことをしても、無駄だぞ! 必殺の一撃は、すでに我らが放っているのだ!」
「ならば、尚更見過ごせないな」
 虚勢を張るようなその言葉に、ウィルフレッドは不敵な笑みを向けて、剣を引き抜く。そしてロキも、体を低く沈めた。
 その気迫に、ローブの男が情けない声を上げて逃げ出す。
 ウィルフレッドとロキが同時に地を蹴り、
「待て──」
 そしてその足が、止まった。
 ──ばしゃっ。
 唐突に、まるで水を溜めていたコップがひっくり返ったように、口から溢れる真紅の血。
「ウィルフ……っ!?」
 彼の足下に撒かれた鮮やすぎる色に、アリシアリスは悲鳴に近い声を上げる。彼と同じく追跡しようとしていたロキも、思わず足を止めて振り返っていた。
「……やられたな」
 虚ろな瞳をしたウィルフレッドが、自嘲気味な笑みを浮かべて、低くそう呟く。
 体から力が抜けたように崩れ落ちる彼に、アリシアリスとロキは駆け寄った。

 エアルフリードたちが彼女を見つけることができたのは、まるで子供が駄々をこねるように泣く、その声が聞こえたからだった。
「勝手に倒れてるんじゃないわよ! 立ちなさいよ! このバカぁっ!」
 それは、むき出しの土の上で仰向けに横たわるウィルフレッドに、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたアリシアリスが、すがりついて上げている声。
 二匹のウルフが悲しげに覗き込む、その姿に。ウィルフレッドの白い顔とローブを染める鮮血に。
 誰もが一瞬、声を失った。
「な……なんで……?」
 エアルフリードが呆然としながら呟く。
 その声に、アリシアリスがハッとして振り返った。
「た、助けて! 誰かウィルフを助けて!」
 初めて目にする彼女の懇願する姿。そして悲痛な声。
 我に返ったように、フロウティアが駆け寄る。セリオンやメリスもそれに続いた。
「やってみます」
 ウィルフレッドの胸に手を当て、フロウティアが小さく呪文を唱える。彼女の手の平から暖かい光が流れ、ウィルフレッドの全身に満ちていく。
 しかしその光が収まっても、彼の顔に生気が戻ることはなかった。
「そんなっ……どうして!?」
 癒しの術が効果を顕さないことに、フロウティアは驚愕の声を上げる。
 隣に並んだセリオンが、苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「これは……手遅れかもしれない」
「そ、それなら! このスクロールで!」
 メリスが慌ててバックパックを下ろし、中から一枚の巻物を取り出す。瀕死に陥った者も蘇らせることできる、魔法のスクロールだ。
 アリシアリスはそのメリスの腕を掴み、急かせる。
 それにうなずいて応え、彼女が巻物を開いたとき、意識がないと思っていたウィルフレッドがその腕を掴んで止めた。
「無駄……だから……」
「ウィルフレッド!?」
 皆が一斉に彼の顔を覗き込む。
 死の色を濃くした彼の顔が、アリシアリスに向けられて、力なく笑った。
「惜しかった……なぁ……。もう少し…で……アリスに好きって……言ってもらえた……のに……」
「バカっ! そんなの、帰ったらいくらでも言ってあげるわ! だからちゃんと起きなさいよ!」
 悲しく歪んだアリスの瞳から、涙が溢れて止まらない。どうしようもない感情が、全部目から流れ出しているような気がした。
 ウィルフレッドは苦笑するように瞳を閉じる。
「そっか……それ…じゃあ……ちゃんと、帰らないと……な……」
「そ、そうよ……ちゃんと村に戻って、元気になったら、言ってあげるわ!」
「ああ……楽しみに……しとく……」
「だ、だからっ……ほら。起きなさいよ……」
「……ああ……」
 次第に小さくなる彼の声に、堪えきれず、アリスはその胸にすがりついた。
「あたしのことが好きだって言ったじゃない! だったらあたしが嫌なことしないでよ! あたしを苦しくしないでよ! あたしが悲しいこと、しないでよぉっ……!」
 彼を引き止めるように、閉じてしまった瞳に呼びかける。涙を溢れさせながら、強く。
 エアルフリードは辛そうに顔を背け、フロウティアとセリオンは苦しげな顔で瞑目する。そしてメリスは、アリスと同じように泣きじゃくった。
「……ごめん」
 ぽつり。
 聞こえた小さな声と共に、アリスの頬にウィルフレッドの手が触れる。瞳を閉じたまま、彼は彼女に向ける最期の笑みを浮かべていた。
「ウィルフ──ッ!」
 アリシアリスは横たわる彼を抱き締め、その小さな唇をきつく重ねるのだった。

第12話へ
 
 

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