その凄惨な姿に、プリシラはしばし、息をすることすら忘れて立ち尽くす。
 療養所のベッドに横たわるファイスは、腕といわず体といわず、まさに全身に包帯を巻かれた姿をしていた。
 活発な彼女の性格を表すかのようだったポニーテールも今は解かれ、その焦げ茶色の髪も、いつも自信に満ちていた瞳も、薄く血の滲んだ包帯によって隠されてしまっている。
 わずかに露出している口元と、傍らに置かれた装具一式がなければ、あるいはプリシラでも、彼女がファイスだとは判らなかったかもしれない。
 いや。
 今でもそれは、信じたくないことであった。
(私のせいだ……)
 見つめる2つの瞳から涙がこぼれ、頬を伝い落ちる。
 神殿内にあるこの療養所に案内してくれた神官が、ファイスが重傷を負った理由を教えてくれた。
 助けを求めていた他の冒険者を助けるため、魔物に挑んで敗れたのだそうだ。
 命を救われた冒険者がさらに助けを呼んで戻ってきたときには、ファイスはまるで壊れた人形のようになって、魔物たちになぶられていたという。
 マーガレットと旅に出る直前、かすかに感じた不安は、このことを予感させていたのだろう。なのに自分は、深く考えもせずに出掛けてしまった。
 ファイスのそばを、離れてしまったのだ。
 もし自分が一緒にいれば、ファイスは負けたりしなかったかもしれない。魔法の援護さえあれば、ここまで酷いことにはならなかったかもしれない。
 自責と後悔の念が心の中で渦巻いて、瞳から涙となって溢れていく。
 ファイスの姿を見るのも辛くて、ぎゅっと堅く目を閉じた。
「ごめんなさい……」
 涙混じりの湿った声が口をついて出る。
 その時だった。
「……プリシラ……?」
 小さな、本当にかすかな声が耳に届いた。
 慌てて目を開ける。栗色の瞳が丸くなる。
「帰って……きてたんだね……プリシラ」
 ベッドに横たわる、血の滲む包帯だらけのファイスが、その表情さえも判別できないような顔をこちらに傾けて、口元を微笑ませていた。
「ファイス!」
 崩れるようにしながらベッドの傍らに駆け寄り、プリシラはファイスと同じ目線に自分の顔を置く。
「どう……だった? マーガレットさんたちとの……冒険は」
 声を出すのが辛いのか、乾き切ったようにがさがさの唇を小さく動かしながら喋るファイスは、それでもまずそんなことを聞いてきた。
 プリシラの涙が止まらない。
「ファイス! ファイス! ごめん……ごめんなさい! 私……私が……」
 叫ぶように、言葉にならない声を出すプリシラ。胸を締め付けられるような感情だけが、そうさせている。
 ファイスはしかし、小さく笑うように息を吐いた。
「耳元で……大きな声を……出さないでよ。結構……頭、痛いんだから」
 そしてゆっくりと、口元に笑みを浮かべた。
「おかえり……プリシラ」
 プリシラはもう、しゃくり上げるように泣くことしかできなかった。

 その日からプリシラは、神殿の療養所に毎日通っている。
 もちろん、ファイスの看病をするためだ。
 今のファイスは、身動きひとつ、指一本動かすことすらできない。
 神官の話では、救援に駆け付けた冒険者たちの中に、運良く蘇生魔法を使える者がいたおかげで、一命を取り留めたのだという。助けられたときの彼女は、死んでいてもおかしくない状態だったのだそうだ。
 強い精神力。
 それがファイスの命の火を消さずにいた。
 しかしどちらにしろ、瀕死の重傷である。
 その場で蘇生魔法を施されたが、魔物に抉られた傷の全てが治癒したわけではなかった。回復や蘇生の魔法は精霊の力を借りるとはいえ、本人の生命力が低下していては、限界があるのだ。
 そして術者の技量も。
「その冒険者の神官は、自分の力不足を謝罪しておられました」
 療養所に詰めている下級神官が、そうプリシラに話してくれた。
 たしかに、もっと強力な蘇生魔法であれば、ファイスの傷も完治していたかもしれない。
 しかしプリシラは、その旅の神官にお礼を言いたいくらいである。
 ともかくも、ファイスの命を救ってくれたのだから。
「果物を買ってきたよ、ファイス。何が食べたい?」
 色とりどりの果物を入れた籠をテーブルに置き、プリシラは努めて明るく話し掛ける。
 眠っていたようだったファイスは、その声に耳を傾けるようにわずかに頭を動かし、口元をほころばせた。
「今日も……来たんだね、プリシラ」
「当たり前です。ファイスが元気になるまで、ちゃんと私が看病するんだから」
 背伸びするように澄ました顔でそういうプリシラの姿が、目の見えない今のファイスにも容易に想像できるようだ。笑うように息が漏れる。
「でも、毎日ここへ……来てたら、冒険にも……行けないよ?」
「今はそんなことより、ファイスの体の方が大事ですよ」
「ふふ……それで? 最近は……どうなんだい? マーガレットさんとか……他の冒険者と……一緒なのかな?」
 そのファイスの質問に、籠から果物を選別していたプリシラの手が、震えるようにして止まる。
 ファイスはそれに気付くわけもなく、さらに続けた。
「マーガレットさんとは……もう、ちゃんと友達になれたのかな? 他の冒険者の人とも……仲良くしなくちゃ、ダメだよ。ボクがいなくても……プリシラなら、ちゃんと……」
「今はファイスの方が大事ですっ」
 ファイスの弱々しい声を、プリシラの強い口調が遮った。
「ファイスの体が治るまで、私はどこにも行きません。ずっとここにいます。ちゃんと治るまで、毎日だって来ます!」
 下げた両手でスカートの生地をぎゅっと握り締め、何かを堪えるように震える声でそう言うプリシラに、ファイスは驚いたようにわずかに口を開ける。
 プリシラは一度強く両目を閉じてから、気を取り直すように無理やりな笑顔を作った。
「だから早く元気になって、また一緒に旅をしましょう。まだまだ行っていないところは沢山ありますよ。早くしないと、私たちの出番がなくなっちゃうかもしれません」
 空元気でも、その言葉が功を奏したのか、ファイスの口元が笑みの形に動いた。それを見たプリシラも、少しだけ救われたようにほっと微笑する。
 しかし。
「……ダメだよ……」
 ファイスの口から漏れたのは、否定だった。
「ダメだよ……プリシラ。ボクはもう……一緒には行けないんだ……」
 プリシラの目が丸く見開かれる。
 ファイスは微笑んだまま、体に力を入れるようにして、右腕の肘から先だけをベッドから持ち上げた。そうするだけでも、全身に焼けた刃を押し付けられるような痛みが走る。
「プリシラ……ボクの手を……握ってみて」
 言われるままに、その持ち上げられた右手に自分の右手を重ねるプリシラ。そして傷に障らない程度に軽く、その手を閉じる。
 だが……
「ファイス……っ!」
 プリシラは泣き出しそうな声を出した。
 ファイスの右手は、彼女がどんなに力を込めようとも、人差し指一本、動かなかった。
 脂汗の滲む顔に、それでも笑みを浮かべたまま、ファイスはプリシラを見上げるようにする。
「ね?……ボクの手、もう動かないんだ……」
「!」
「司祭の人に言われたよ……怪我が治っても……もう武器は握れないって……」
 まるで普段と変わらないような口調で話すファイスに、プリシラの瞳からは、堪えたはずの涙があふれ出していた。
「まあ……仕方ないよね……腕は……ちょっと、酷かったもんなぁ……」
 笑うように息を吐くファイスの手を、優しく両手で包みながら、プリシラはベッドの傍らに崩れ落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 ファイスの告白は、閉じ込めていた自責と後悔を呼び起こし、プリシラはそう繰り返しながら泣き崩れる。
「私があのとき、ちゃんと注意してればっ!」
 仲間だと言ってくれたのに──。
「あのとき私が出掛けたりしなかったら!」
 初めてできた友達なのに──。
「ファイスはこんな風にならなかったのにっ!」
 大事なときにそばにいられなかった……。
「ごめんなさい……ファイス……っ!」
 どんなに謝罪しても、この心の痛みが消えることはない。それでもそうせずにはいられないから、プリシラはひたすら謝り続けた。
 そんな友達の姿を、見えない目で見つめるファイス。
 プリシラが毎日ここへ来ていた理由を、彼女は察していた。きっと自責の年にさいなまされているのだろうことも、ちゃんと解っていた。
 だけど、それではいけない。
 だからファイスは笑顔を作る。この心優しい友達が、ちゃんと立てるように。
「ボクは……逆に良かったと思ってるよ」
 不自然なほどにはっきりとしたファイスの口調に、プリシラは泣きはらした顔を上げる。
「一緒だったら……プリシラも、こんな風になってたかも……しれないだろ。だから……ほんとに良かったよ」
「ファイス……」
 声を震わせるプリシラの手からファイスは右腕を探るように動かし、自由にならない指の代わりに手の平を使って、友達の頬をぬらしている涙を拭き取るようにした。
「プリシラは……立派な冒険者に……なってよ……ボクの分まで」
 そう言ったときのファイスは、今までで一番の笑顔を浮かべていた。

 知らぬ間に降り始めていた雨が、グルーディオの街を覆い隠すように濡らしている。
 神殿から出てきたプリシラは、その激しい水の洗礼にもまるで気付いた様子もなく、うつむいたまま歩いていた。
 ファイスの言葉が、その中に込められた彼女の気遣いと気持ちが、胸に突き刺さる。
 今、彼女のそばを離れることは、また彼女を──友達を裏切るようなことになるのかもしれない。
 いや、見捨てると言ってもいい。
 しかしそれが彼女の願いであるなら……。
「プリシラちゃん?」
 不意に声を掛けられて、プリシラは虚ろな目をした顔を上げる。
 雨よけの外套を羽織ったマーガレットが、目を丸くしてこちらを見ていた。
「ずぶ濡れじゃない。どうしたの?」
 マーガレットは自分の外套を広げるようにしてプリシラにかざす。
「ちょうどあなたを探していたのよ。宿の人に、神殿にいるだろうからって聞いて……」
 そこまで言ったとき、プリシラの顔を濡らしているものが雨だけではないことに気が付き、言葉を詰まらせる。
「……何があったの?」
 静かな声音で訊ねるマーガレットの前で、プリシラは噴き出しそうなものを抑えるように、両目を強く閉じてうつむき、それでも止められない涙を流しながら、しゃくり上げた。
「私……強く……強くなりたいです……!」
 その声は、石畳を打つ強い雨音にも、消されることはなかった。

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