「帰る? 家に?」 カノンのその言葉を聞いたとき、フロウティアは紙に走らせていた羽ペンの先を、思わず大きくずらしてしまった。書きかけだった聖典の注解が台無しになる。 自分の手元を見て、ひとつ息を吐いてから、彼女は掛けていた眼鏡を外してカノンに向き直る。 「冒険者をやめる、ということね?」 視線を合わせて確認するようにそう訊ねた彼女に、カノンは顔を伏せたまま小さくこくんとうなずいた。 困ったように眉根を下げるフロウティアは、その視線をカノンの後ろにいるエアルフリードへと向ける。 「何があったの?」 その問い掛けに、長い付き合いの親友は軽く肩をすくめるだけだ。まるで自分は関心がないというように。 こういう態度の時は、知っていても語ってくれないと解っている。 「困ったわね……」 頬に手を当てて、フロウティアはもう一つ息を吐く。 「かのん……帰っちゃダメなんですか?」 小さく呟くようなカノンの声。フロウティアは小首を傾げるようにして、視線を下げる。 そこに、顔をくしゃくしゃにしてぽろぽろと涙を零すカノンの姿があったから、彼女は慌てた。 「かのんは……いらないんです……」 その言葉は、とても寂しい。 「とにかく、少し落ち着いて考えなさい」 フロウティアはそう言って、しゃくり上げるように泣くカノンをエアルフリードに任せ、自分は部屋を出て行った。この部屋に自分がいると、エアルフリードがどうにも動きづらそうだと察したからだ。 確かにその通りなのだが、見抜かれたエアルフリードとしてはあまり面白くない。フロウティアの出ていった扉を、半眼で恨めしそうに見つめている。 もっとも、だからといって何もしない彼女でもないのだが。 先ほどまでフロウティアが座っていた椅子に座らされ、背中の羽も小さな頭も、萎れた花のようにうなだれさせているカノンに視線を戻し、エアルフリードは呆れたような、あるいは疲れたようなため息を漏らす。 (仕様のない子ねぇ) その表情は、そう語っている。先ほどまでの無関心ぶりが嘘のようでもある。 自慢の長い髪に手を突っ込み、それを掻き上げるように頭を掻きながら、彼女はいまだに小さくしゃくり上げているカノンのそばへと歩み寄った。 「泣くくらいなら、あんなこと言わないっ」 叱られるその声に、カノンはびくりと体を震わせ、泣き腫らした顔を上げる。 「お姉様……」 「あんたのいいところは、何でも素直に聞けることだけど、それもコトによりけりだわ」 「うゆ……?」 「つまり、たまには我を張りなさいってこと」 椅子に座るカノンの正面に立って、その小さな額を人差し指でちょんとつつく。 「お友達に何言われたか知らないけど、あんただってやりたいことがあって、ここに来たんでしょーに。それを諦めるわけ?」 「だって……かのん……」 「私はね。中途半端なことと、中途半端な奴が大嫌いなの」 カノンの声を遮って言われた言葉は、唐突すぎてカノンにはよく解らない言葉だった。涙で赤くなった目を丸くして、きょとんとエアルフリードを見上げる。 いささか機嫌が悪くなっている様子のエルフは、腕組みをしてカマエルの少女を見下ろす。 「あんたのことを言ってんの。何も結果が出てないのに、途中で投げ出そうとしてる。自分で決めたこともやり通せないんじゃ、冒険者やめたって、何も変わらないわよ」 「──っ!?」 丸くしていた目を見開くようにして、カノンは息を呑んだ。エアルフリードに怒られていると解ったからだ。 しかも、今の自分は嫌われているらしいと。 収めたはずの涙が、またじわりと瞳に浮いてくる。視界が少しだけ歪む。 「か、かのん……かのんは、がんばって……」 何か言わないと本当に嫌われてしまうと、無意識に思ったのだろうか。泣き顔に表情を崩しながらも、どうにか言い訳をしようとする。しかし、エアルフリードはそれすらも遮った。 「頑張ってない。あんたはまだ、何もやってないの」 「ぁ……ゅ……」 文字通り、頭ごなしに否定の言葉を叩き付けられ、カノンは見上げていた視線を下へ落とし、ゆっくりと顔をうつむかせた。泣き顔に怯える色が加わり、どうしていいのか解らないというふうに困惑している。 エアルフリードは構わず続けた。 「今まで自分が何をやれたか、思い出してみなさい。何もやれてないでしょーが。ただ怖がってただけ。それじゃあ、どんなに立派な志を持っていても意味がないのよ。誰にも伝わらないし、解ってもらえない」 「……」 「あんたはね。『自分が弱い』ってことを逃げ道にしてるだけなの。たしかにあんたは、極端に臆病だし、他の戦士に力量でも劣るわ。だからってそれに甘えるようなことをしてちゃ、いつまで経っても強くなんてなれない。ずっと何もできないままなのよ」 たたみ掛けるようにそこまで言ってから、エアルフリードは一つ息を吐く。そして組んでいた腕を解いて、その右手をうなだれるカノンにすっと差し向けた。 「それでもいいなら、そのエンブレムを外しなさい。あんたにはもう必要のないものだわ」 カノンの全身が大きく震える。怯えたような瞳をゆっくりと自分の左腕に向け、巻かれているバンダナを見つめる。いくつもの星が重なり合って広がる、そのエンブレムに。 「ぅ……ぅゅ……!」 自分の『星』を見つけたとき、カノンは思わずバンダナを右手で隠すように押さえ、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がって駆け出していた。そしてそのまま部屋を飛び出す。 「わぁっ!?」 部屋の前にいたポエットとライ、アレクシスの三人を押しのけるようにして、小さな姿が瞬く間に階段の下へと消えていく。虚を突かれたような三人は、呆然とそれを見送った。 「……ったく。しょーがない子ね」 部屋の中に残されたエアルフリードが、そう呟いて面倒くさそうに頭を掻く。その声に、廊下のポエットが慌てたような顔を向けた。 「え、エアルさん! 追い掛けないと!」 「あんたたちも手伝いなさいよ。盗み聞きしてたんだから」 「うっ……ば、ばれてるぞ……」 「だからやめようって言ったじゃねぇか……」 気まずそうにするライとアレクシスをポエットが睨み付け、二人をうながして廊下を駆け出す。その去り際に、彼女は部屋を覗くようにしながら、エアルフリードに問い掛けた。 「カノン……やめたりしませんよね?」 「見れば分かるでしょーが」 エアルフリードはぶっきらぼうにそう答えていた。 広いギランの街の中で、ひと一人を捜し出すのは骨が折れる。ポエットたちには手分けをさせて捜索範囲を広げ、自分も思い当たる場所を片端から回りながら、エアルフリードがそこに辿り着いたのは、日暮れも近付いた頃だった。 街のほぼ中央にある広場。アインハザードの神殿を仰ぎ見るようなその場所の片隅に、見慣れた小さな姿がうずくまっている。 木を隠すなら森の中──とはよく言ったものだが、いつでも人で溢れるここは、カノンにしては上出来な隠れ場所だと思った。 冒険者が広げる露店に、隠れるようにうずくまっている少女へ、エアルフリードは大股で近付いていく。その勢いと威圧感に、露店の冒険者は思わず場所を空けた。 そして、カノンが抱えていた膝から顔を上げる。 「あ……」 途端に、おたおたと辺りを見回し、背中の羽をぱたぱたと激しく動かしながら、どこかに隠れる場所はないかと探す。 その頭を、上体をかがめたエアルフリードがわしっと掴んだ。 「さ、帰るわよ」 「うゆゆゆゆゆゆっ!?」 「暴れるなぁ! ほんとに怒るわよ」 「……怒ってないの?」 「今はね。でも、あんたが家に帰るって言うなら、怒るわ」 「うゅ……」 その言葉に、カノンは再びしょんぼりとうつむく。エアルフリードは一つため息を吐いてから、カノンと同じように石畳の上に腰を下ろした。 「あんたにとって、あのお友達連中が大事なのは解ってるつもり。あの子たちに否定されたような気になったから、帰るなんて言い出したんでしょ」 カノンはふっと顔を上げてエアルフリードを見つめ、こくんとうなずいた。そのまま目を伏せるようにして語り始める。 「てっちゃんは、いつもかのんを守ってくれました。たぁちゃんは、かのんが失敗しても励ましてくれました。さらちゃんも、くらちゃんも、かのんと一緒だと楽しいって……」 じわりと紅の瞳に涙が浮かぶ。 「だから……だからかのん……みんなの役に立とうって……! 一緒にいて、頑張ろうって……! 何かしたいと思って……っ!」 話しながら、カノンは泣いていた。止めどなく零れてくる涙を抑えることもできず、しゃくり上げるようにしながら、一生懸命に言葉を紡ぎ出す。 「でもっ……かのん、頑張れなくて……! かのんが役立たずだからっ……足手まといになるからっ……!」 エアルフリードはそれを黙って聞いていた。同情するような顔も、慰めるような視線も向けず、ただいつものように平然と。 だから、カノンの言葉が止まり、しゃくり上げるような声だけが聞こえるようになったとき、彼女は普段どおりの対応をしてみせた。 「あんた弱いんだから、当たり前でしょーが」 そう言いながら、流れる涙と感情の高ぶりで朱色に染まったカノンの柔らかい頬を、両手でぐいっと左右に引っ張る。 「思っただけで何でもできる人なんていないのよ。だからみんな、やりたいことをやるために努力するんでしょ。あんたに足りないのは、その努力。気持ちだけ先走っちゃって、中身がついて行ってないから、あんなことになるのよ」 カノンは涙を浮かべたまま、きょとんとエアルフリードを見つめる。宿で言われたことを解りやすく言い換えただけの言葉だったが、カノンにはそれで十分だった。 エアルフリードは、カノンの頬をふにふにといじりながら続ける。 「まずは力を付けなさい。あんたがやりたいことをやるために。そのために、私たちがいるんだから」 「うゆ……?」 「あんたはお友達のことで頭がいっぱいになっちゃってたから、忘れてるかもしれないけど、今のあんたは一人じゃないの。力を貸してくれる仲間がいるのよ、カノン」 そう言ったエアルフリードの口元が、ふっとほころぶ。その優しい微笑と眼差しに、カノンは気付かされたようにはっとした。 「エンブレムを付けるっていうのは、そーゆーこと」 「うゆ……!」 カノンは大きくうなずいた。そして自分の左腕にある仲間の『星』を見つめる。 その一つ一つが、血盟のみんな……。そう説明されたときの、エアルフリードの言葉がよみがえる。 そして今は、自分もその中にいるのだ。 それを思うと、泣き腫らした顔に笑顔が戻ってくる。エアルフリードから解放された頬が、にんまりと笑う口元に持ち上げられた。 きらきらと輝き始めた瞳が、エアルフリードに向けられる。 「かのんは……強くなれますか?」 「やる気次第、ね。とりあえず、明日からセーラあたりと組んで一緒に──」 現金なものだと思いながら、微笑を苦笑に変えたエアルフリードが言い掛けたとき、長い耳が小さな足音を捉える。その持ち主に心当たりがあったから、彼女はわざとらしい笑顔を作って振り向いた。 「あら。ちょーどいいところに」 自分たちを見下ろすように立つテスタが、剣呑な顔付きで口を開く。 「何をしているんですか?」 「カノンがね。帰るって言ってたんだけど、思い止まったところなの。良かったわね。友達が減らなくて」 皮肉を付け加えたのは、彼女なりの報復だったかもしれない。カノンを泣かせてくれたことへの。 それを無視するように、テスタの視線がカノンへ向けられる。 「……まだいるつもりなの」 冷たい口調とその視線に、カノンは小さく体を震わせた。だが、決意するかのように膝を抱える両手にぎゅっと力を込め、ゆっくりとうなずく。 その時、エアルフリードから見たテスタは、なぜか悔しそうに見えた。 「あなたがいても、役に立たないことは解ったでしょう? 足を引っ張るくらいなら、いない方がマシなのよ!」 「う……うゆ……」 「それは解らないわよ〜? カノンだって、やるときはやるかもしれないじゃない?」 「あなたは黙っていてください!」 「ていうか、それはこっちの台詞かもね。この子は今、うちの血盟にいるんだから」 カノンを庇うように腕を回して頭を撫でながら、エアルフリードが不敵に笑ってみせる。 テスタは苛立ったように、何か言い掛けて口を開いたが、声を詰まらせてしまった。代わりに鋭く睨み付けてくる。 (この子……もしかして……?) その態度には、どこか思い当たる節があった。エアルフリードの脳裏に、親友の顔がふと浮かぶ。 思わず漏れそうになった苦笑を抑え、代わりにあっけらかんとした声音を作った。 「ま、あんたが納得しないなら、勝負してみてもいいわよ」 さすがにこれには、テスタも目を丸くする。ついでにカノンも。 エアルフリードは意表を突けたことを少しばかり心地よく思いながら、ウインクを一つ。 「どう? 実際にカノンと戦ってみて、白黒はっきりさせてみたら?」 こうなれば、テスタを挑発することなど、彼女にとっては造作もないことであった。 →第12話へ |
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