空に色が付いていることが不思議だった。
「ん? 空に何かある?」
「……青いです」
「? うん」
「初めて見ましたっ」
 興奮したように声を上げるカノンの瞳は、澄み渡った青空を見つめて、きらきらと輝いている。
 白い雲も、透明な光を放つ太陽も、全てが初めてだった。
「カマエルの村は、変な空だったもんね」
 一緒になって空を見上げたエアルフリードの瞳も、優しく笑っている。
「そろそろ夕焼けも見られるよ」
 多様な人々が行き交うギランの街角で、2人はいつまでも夏の空を見上げていた。

「──というわけで、今日からうちのアカデミーに入った子だから、みんなよろしくぅ」
 酒場にいる血盟の仲間たちと、同宿の他の冒険者たちにも紹介するように、エアルフリードは少し声を張ってそう言った。
 彼女の傍らのカノンは、小さな体をさらに小さくして、恥ずかしそうに頬を染めながら、焦るようにぺこりと頭を下げる。そして、その拍子にそのまま「こてんっ」と前のめりに倒れた。
(転けた……)
(ただのお辞儀で……)
(しかも何もないところで……)
 その場にいる冒険者たちは、呆れるやら唖然とするやら……小さく笑う者や、一部でほんわかと表情を緩める者もいる。
「むぅ……なかなかやりますね、あの子」
「なにをだ」
 そんな中でポエットは片手を顎に当てる仕草で、目をきらりと光らせる。隣のユーウェインはすでに呆れ顔だ。
(こけちゃった)
 床にぺたんと座り込んで、照れ笑いと、ちょっとだけ涙を浮かべながら、打ち付けてしまった額をくしくしと撫でるカノン。その眼前に、すっと片手が差し出される。
 顔を上げてみると、そこに先ほど見た太陽のように、明るく微笑んでいる女性がいた。
「大丈夫? おでこがちょっと赤くなってるかな」
 手を取って立ち上がらせてくれたその女性は、自分の額を指さしてみせる。カノンは片手で額を押さえたまま、ぼうっと彼女を見上げた。
 にこりと笑いかける彼女の隣に、これまた美しいエルフの男性が並ぶ。
「俺はセリオン。こっちはメリス。解らないことがあったら、何でも聞いてくれ」
「カノンちゃんだっけ? よろしくね」
 うなずくことも忘れて、カノンはその優しげな2人の先輩を交互に見つめた。
(お兄さんとお姉さん……)
 何事か自分の中で納得してから、こくんとうなずく。2人とも笑ってくれた。
 すると今度は、背後からぽむっと叩かれるように、頭に手が置かれる。
「ひゃー。ちっちゃいねー、キミ。プリシラより小さいカマエルなんて、初めて見たよ」
「ファイス。失礼ですよ」
 見上げるように振り返ると、そこに他の大人たちより少しだけ背の低い、2人の女性が並んでいた。歳も他の冒険者より、少し下のように見える。
 日焼けした、活発そうな女性が白い歯を見せて笑った。
「ボクは闘士のファイス。エアルじゃ物足りないときは、ボクを頼ってね」
 続いて、彼女とは対照的に大人しそうな隣の女性が上体をかがめながら、笑顔で右手を差し出してくる。
「私はプリシラ。エアルさんの補助に不満があったら、いつでも頼ってくださいね」
 カノンはプリシラの手を取りながら、その2人もまた、見比べるように交互に見つめる。
(お姉ちゃん2人……)
 そしてまたも何か納得して、こくこくとうなずいた。ファイスとプリシラは、その仕草に顔をほころばせる。
「そこの2人っ。私が何かやらかすこと前提で話を進めないっ。ていうか、まだ後見人になるって決まってないからっ」
 2人をびしりと指さしながら、エアルフリードは言い放つ。
 カノンはそんな彼女を不思議そうに振り返った。
 その視線の先で、エアルフリードの肩に大きな手がぽんっと置かれる。
「なんだい。あんたが見つけてきたんだろ?」
「面倒見てやるのが、筋ってもんじゃねぇか」
 その2人は、エアルフリードよりも身長が高く、特に肩に手を置いたオーク族の女性は、カノンのこれまでの人生で初めて目にするほどの長身だ。
 カノンの小さな口がぽかんと丸く開かれる。
 その視線を捉えて、カイナは口元に笑みを浮かべると、ずかずかと近寄った。
「あたしはカイナ。今日からあんたもあたしたちの仲間だよ」
 そう言って、小さな頭を優しく撫でるように、大きな手を置く。髪がふわふわと揺れるのが、カノンにもわかった。
 その隣から、同じように大股で近寄ってきたバインが、優しい眼差しを向けてくる。
「仲間っていうより、うちの場合は家族だな。──俺はバイン。よろしくな、ちびっこ」
 優しく頭を撫でてくれるカイナの手の大きさと温もり。そしてそれを見つめるバインの眼差しと声に、カノンは何か不思議な感じを覚えて、ぼうっと2人の顔を見上げる。
「……ママ……パパ……」
「なっ──!?」
『何をぉおおおおおおっ!?』
 不意にカノンの口を衝いて出た言葉に一番激しく反応したのは、目を丸くしたカイナやバインでも、思わず声を上げそうになったエアルフリードでもなく、彼らの周囲にいるバインの知人──この宿に逗留する、様々な種族の戦士たちであった。
「貴っ様ぁ! 俺たちに内緒で結婚しただけじゃ飽きたらず……」
「子供まで作るとは、どぉゆぅ了見だ、コラァ!」
「てめぇ1人で幸せ独占してんじゃねぇ!」
「たまにはこっちにも寄越しやがれっ!」
「ヒューマンとオークの間には、カマエルの子供が生まれる! 新事実です、教授!」
「うむ! さっそく学会に発表せねば!」
 一気に噴き上がる怒号。そこに紛れて聞こえる、わけの分からない掛け合い。
 まるで噴火した火山のようなその勢いに、カノンはちょっぴり涙目になりながら、青ざめた顔でガタガタと震えてしまう。
 次々と浴びせられる、むさ苦しい男たちの罵声に、バインは額に青筋を浮かべながら振り返った。
「やかましい! いきなりこんな大きな子供ができるわけねぇだろ! てゆーか、子供作っちゃ悪いのか!? 夫婦だぞ、俺ら!」
「少なくとも、俺より先には許さんっ!」
「俺より先に作るのも許さんぞ!」
「俺もだ!」
「だああああっ! てめぇらまとめて表へ出ろぉッ!」
 ついに槍を取り出して振り回し始めたバインに、戦士たちも各々の獲物を取り出して応じる。
 怒号と罵声を振りまく集団は、そのまま流れるように宿の外へと繰り出していった。
「…………」
 呆気にとられていたのは、エアルフリードだけではない。セリオンもメリスも、その場にいた他の冒険者たちも、扉がぱたんと閉まるまで、呆然と彼らを見送っていた。
「ま、うちの旦那はああいう感じかね」
 ただ1人、カイナだけは平然とそう言ってのけたのだった。

「…………はっ!? カノン!?」
 我に返ったエアルフリードが酒場の中を見回してみると、二階へ続く階段の横で、影に隠れるように小さくうずくまっている片翼の少女がいた。
 小さな点のようになった両目から涙を零し、口も小さなバッテンのようにすぼめて、カクカクと小刻みに震えている。無論、顔には大きな縦線だ。
「そこまで怯えなくても……」
 いつの間にそんな場所まで逃げたのか、その瞬発力には驚嘆しつつ、エアルフリードはため息を吐いてその傍に歩み寄る。
 隣にふわりと舞い降りるような暖かさを感じて、カノンはようやくその存在に気が付いた。自分と同じように、膝を抱えてしゃがみ込んだエアルフリードに。
「こ、こわかった……」
 涙をいっぱいに溜めた目を向けて、でも安心したようにそう言う。エアルフリードは苦笑を漏らした。
「はいはい。怖いお兄さんたちは、もうどっかいっちゃったから、大丈夫よ」
「でも、パパみたいな人……」
「あんたのお父さん、あんななの?」
「……ちょっと違うかも……」
「でしょうね。……ちなみに、どうしてカイナが『ママ』なの?」
「おっきくて、あったかい人……」
「あんたのお母さん、おっきいの?」
「……ちょっと違うかも……」
「雰囲気の問題みたいね」
 不意に、頭上からそう声が飛んでくる。
 2人が同時に顔を上げてみると、階段を降りてくるフロウティアの姿があった。
 そのままの姿勢でエアルフリードが問いかける。
「盟主は?」
「涙で枕を濡らしていたわ」
「やっぱり」
 予想どおりの答えに、肩をすくめてため息を1つ。
 階段を降りたフロウティアも、エアルフリードと同じように、カノンの前でしゃがみ込む。にこりと微笑みかけた。
「さしずめ、エアルはお姉さんかしら」
 そう言われて、ぼうっとした顔をエアルフリードに振り向ける。
「ん?」
 怪訝そうに眉をひそめるエアルフリードを見つめ、カノンは小さく口を開いた。
「お姉様」
 ──ぶっ!
 瞬間、2人の正面に座っていたフロウティアは盛大に吹き出していた。
「吹いたっ!? あのフロウティアが!」
「常に微笑みを絶やさず、『慈母のフロウティア』と呼ばれる、彼女がっ!?」
 周囲で一斉にどよめきが起こる。
 その瞬間の彼女の表情は惜しくも──彼女にとっては幸いなことに──見ることはできなかったが、彼女を知る者たちにとっては十分な衝撃であった。
 ちなみにその2つ名と今の事態とは、何の因果関係もないことを付け加えておこう。
「汚いなぁ……何やってんのよ、もう」
 顔をしかめてそんなことを言いながら、エアルフリードはフロウティアにハンカチを差し出す。咳き込むようにうつむきながら、それを受け取るフロウティア。
「ごめんなさい……その、つい……」
「ついって、あんたねぇ……」
 カノンには、何が何だかさっぱり解らない。不思議そうに小首を傾げた。
 セリオンやメリスすらも動揺する中、うつむいて表情を隠し、どうにか体裁を繕ったフロウティアが顔を上げる。
「と、とりあえず……カノンにも、これを渡しておかないとね」
 そう言って、スカートのポケットから一枚の布を取り出す。
 それは、血盟のエンブレムが入ったバンダナ。エアルフリードやフロウティアもその左腕に巻いている、仲間の『証』。
「うゅ!」
 カノンの頬が、嬉しそうにぱあっと染まる。
 それを見てフロウティアもにこりと笑う。そしてその手をエアルフリードに差し出した。
「ほら。あなたが巻いてあげなさい」
「……しょーがないわね」
 フロウティアの手からバンダナを受け取り、両手で開いてカノンに見せるようにかざす。真ん中にある沢山の星が集まっているエンブレムに、カノンの瞳がキラキラと輝いた。
「うゅっ、うゅっ」
 待ちきれないかのように背中の羽をパタパタと動かし、こぶしを作った両手も小さく上下させる。
「ほら、じっとして」
 しゅるしゅるとカノンの細い腕に、真新しいバンダナが巻かれる。カノンは小さく口を開いて、嬉しそうに顔を輝かせた。
(みんなと一緒……)
 周りを見てみれば、エアルフリードもフロウティアも、優しそうなセリオンやメリス、元気の良いファイスやプリシラも、みんな自分と同じエンブレムを付けている。
 それが、何だか嬉しい。
「ちゃんとあんたの『星』もあるわよ」
 言って、エアルフリードが1つの小さな星の絵を指さす。
「かのんの星……」
「そっ。盟主が『新人が入ったらすぐに上げられるように』って、用意しといたの。私たちのは、まだだけどね」
「今頃、部屋で作ってくれてるわよ」
 フロウティアは階段の上を見ながら、そう付け加える。
 カノンはその星の絵に触れるように、そっと指で撫でてみた。何だかくすぐったい。自然とにへらと頬が緩む。
 その笑顔に釣られて、エアルフリードの口元も自然と緩んでいた。
「ちゃんと輝きなさいよ」
 その小さな新しい仲間に、彼女は頬杖を付くようにして、そう囁いていた。

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