──ぱちりっ。
「……うゆ?」
 目が覚めたとき、そこが知らない場所だと思った。
 夏用の薄い掛け物を両手に掴み、口元まで引き上げる。ルビーを思わせる深紅の瞳は、不安げにきょろきょろと周囲を見回した。
「おはよーっ!」
 その視界に、不意に女の子の姿が飛び込んでくる。ピンク色のちょっとだけ長い髪をした、愛くるしい笑顔の少女だ。
「すぐご飯行く? あ、先に顔洗ってこないとね」
 その少女の姿に、彼女はきょとんと両目をしばたかせてから、体を起こした。
「お、おはようございます……」
 ここがギランの宿屋で、自分が寝ていたベッドは、昨日の内に割り当てられた自分の部屋の物だったことを、彼女はようやく思い出したのだった。

「ポエットちゃんにも、やっとルームメイトができたね」
 朝食の席で、2人揃って一階に降りてきたカノンとポエットを迎え、メリスが微笑みかける。
 バターを付けたロールパンを両手に持ったポエットが、嬉しそうに大きくうなずいた。
「はいっ! これでもう、アガシオン人形に話し掛ける生活からも解放されます!」
「……なんだ?」
 不穏な台詞に、同席のセリオンが思わず眉をひそめて聞き返す。
「夜とか1人だと寂しくて、前にマモンさんからもらったアガシオン人形と遊んだりしてたんですよぅ。たまに受け答えもしてくれるので」
「……それ、ほんとに人形?」
「お人形ですよ? たまに喋りますけど」
 メリスの問いかけに平然とそう答えて、はぐっとロールパンにかじりつく。
 セリオンとメリスは互いの顔を見合わせて、小さくため息を吐いた。「触れないようにしよう」と、その目で語り合って。
 そんなやりとりの横で、カノンもポエットと同じロールパンに、はくっとかじり付く。しかしポエットと大きく違っていたのは、その後の動作速度だった。
 ポエットは、ごく普通にもくもくと口を動かして、パンをお腹の中に入れていく。時折スープに手を伸ばして、一緒に流し込んだりもする。
 カノンは、その倍の時間を掛けて一口のパンをようやく飲み込む。そしてまた一口だけ、口の中に入れるのだ。スープを飲むにしても、サラダに手を付けるにしても、常に一口ずつ、とてもゆっくりと。
 自分たちの前で並んで座っているそんな2人を見比べ、メリスもセリオンも不思議なものを見せられているような顔をした。
「何だか対照的ね」
「この場合、比較する以前に、カノンが特別なだけだと思うけど……」
 名前を呼ばれたカノンが、ふいっと顔を上げる。もくもくと口を動かしながら、不思議そうに2人を見つめた。
 そのとき不意に、パンが入って膨らんだその頬が、横から伸びてきた細い指にぷにっと押される。
「そんなゆっくりだと、日が暮れちゃうよ〜?」
 エアルフリードだ。いつの間にかカノンのすぐ隣で、床に片膝を付くような姿勢でテーブルに頬杖を付き、悪戯をする子供のような顔でカノンの頬を押していた。
「うゅっ、うゅっ!」
 カノンは両目を大きなバツ印にして、その攻撃から逃げるように椅子の上で仰け反る。
「ほれほれ」
「うゅ〜っ!」
「エアル……余計に遅くなるから、やめてあげて」
 カップを片手に目を伏せながら、呆れたような微妙な笑みを浮かべて、メリスが悪戯を制止する。
「ま、それもそうね。今日は色々やることあるし」
 あっさりと引き下がり、エアルフリードはその場に立ち上がる。腰に手を当ててカノンを見下ろした。
 苦境を脱したカノンと、隣でスープをすすっていたポエットが、同時に顔を上げる。首を傾げたのはポエットの方だった。
「いろいろ?」
「そっ。今日は……カノン、あんたの実力を見せてもらうわよ」
「?」
 不敵な笑みを浮かべるエアルフリードに、カノンは意味が解らず、きょとんとするのだった。

 ギランの街の郊外に設置された闘技場。
 ここは冒険者や傭兵たちの自己鍛錬の場所として、国が用意した施設である。互いに訓練用の武器を持って打ち合う者たちもいれば、1人で黙々と剣を振る者もいる。
 そんな場所に、エアルフリードはカノンを伴ってやってきた。
「あっちの方が空いてるわね」
 そう言って、割合に広い空間を見つけて、自分たちの訓練場所とする。その一角は弓を扱う者たちの場所だ。
 この場の同席者は、ルームメイトとなったポエットと、みんなの保護者たるフロウティアである。
「いきなりは無理だと思うのだけど……」
「まずはカノンの腕前を見るのが先でしょ」
 心配そうに顔を曇らせるフロウティアに、エアルフリードは手にした訓練用の長弓の弦を引きながら答える。やはりあまり質の良い物ではない。
 弓に向かって眉をひそめてから、彼女は後ろにいるカノンを振り向いた。
「あんたは、ボウガン使いでいいの?」
「うゆ?」
 不思議そうに首を傾げるカノン。それから自分が左手にぶら下げている小さなボウガンを見つめる。
「いや、さ。カマエルの女戦士って、ボウガンかレイピアを使うでしょ。──で、あんたはどっちがメインなのかってこと」
「かのんは……これしか持ってないですよ?」
「あっそ。じゃー、ボウガン……射手(シューター)ってことでいいわね」
 まるで決め付けるような言葉だったが、フロウティアたちがそれに突っ込む前に、カノンは素直にこくんと頷いていた。
 カノンと視線を合わせたまま、エアルフリードがすっと真横に腕を上げて、指を差す。
「あそこにある訓練人形に撃ってみて」
 言われてカノンが視線を向けると、そこには小さなカノンよりも背の高い、木の骨組みに藁を縛り付けただけの、案山子のような訓練人形が立っていた。
 カノンはそれを確認してから再びエアルフリードを見上げ、小さくうなずく。そして左手のボウガンを持ち上げ、そこにボルトをセットするために弦を引こうとした。
「カノンは左利きなのね」
 フロウティアが確認するように呟く。
 それも耳に入らないかのように、カノンは必死に弦を引こうとしている。しかし、それがなかなか終わらない。
 ボウガンの仕組みは、同じ飛び道具である弓とは違って、いたって機械的だ。銃身に対して十字に取り付けられた弓の部分の弦を後ろに引き、撃鉄にあたる金具にそれを引っ掛ける。あとは台座にボルトと呼ばれる専用の矢を置いて、引き金を引くだけである。そうすれば、金具が前に倒れるようにして外れ、弦が矢を飛ばしてくれる。
 本来、力の弱い者でも簡単に強力な矢を飛ばせる装置として発明された武器なのだ。
 だがカノンは「うゆっ」とか「ぁゅっ」とか言いながら、何度も弦を引っ張っては、パチンッと弾かれている。
 最初は大人しく見ていたエアルフリードだったが、さすがにこめかみの辺りがピクピクと動き出した。
「失かっ──」
「待って!」
 落第を告げようとしたエアルフリードを、ポエットの激しい声が遮った。
「待ってください! ちょっと私に任せてくれませんか」
「……了承」
 ため息を1つ吐き、右手をひらひらと振ってポエットをカノンの元へ行かせるエアルフリード。
 悪戦苦闘しているカノンに、ポエットは小走りに駆け寄った。
「カノン。ボウガンを右手に持って、左手で矢をつがえてみて」
「うゆ?」
 何とかボルトをセットしようと、とうとうボウガンを地面に置いていたカノンが、不思議そうに小首を傾げる。ポエットは身振りを交えながら、同じ言葉を繰り返した。
「うん」
 素直にうなずいて、カノンは右手にボウガンを持ち直す。そして左手で弦を引っ張ってみた。
「……うゆっ!」
 今度はごく普通に弦を引くことができ、撃鉄に引っ掛けることもできた。思わず顔を輝かせてポエットに振り返る。
 ポエットはにこりと笑いかけた。
「朝ご飯の時、スープを右手で飲んでた気がしたから、本当は右利きなのかな?って思ったんだ」
「かのん、右利きですよ?」
「じゃあなんでボウガンを左に持ってんのよっ! 紛らわしいっ!」
「うゅっ!?」
 思わず声を上げたエアルフリードに、カノンは頭を両手で庇うようにしてうずくまる。そして口を小さなバツ印にする、いつもの怯えた表情で、恐る恐ると顔を上げた。
「お、お母さんが……いつも左手で撃ってたから……」
「ああ、そう。でもあんたは右利きなのっ。解ったら、さっさと撃つ!」
「エアル……ちょっと落ち着きなさい」
 口から火でも吹きそうな勢いの友人を、フロウティアは肩を叩いて宥めてみる。
 カノンは、これ以上怒られるのも嫌なので、こわごわといった感じに立ち上がり、訓練人形に向けてボウガンを構えた。
「大丈夫だから。落ち着いて狙って」
 横からポエットが声を掛ける。自分よりもさらに背の低いドワーフの少女が、とても頼もしく思える。
 カノンは小さくうなずいて、照準に訓練人形を入れる。そしてその中心に狙いを定めた。
「……うゆっ!」
 小さな気合いの声と共に引き金を引く。
 解き放たれた弦が勢いよくボルトを押し出し、細い矢は空を切り裂く閃光となって目標に突き刺さった!
 ──ガツッ!
 訓練人形のはるか左の石壁に。
「…………」
「…………」
「……うゅ……」
 唖然とするポエットとフロウティア。そして泣きそうなカノン。
 きっと怒られる……そう思いながら、恐る恐るとエアルフリードに振り返った。
 しかしそこには、予想に反して何の感情も表さず、腕組みをするようにして、ただじっと壁に刺さった矢を見つめているエルフの姿があった。
 どこか険しさすら感じさせるその表情に、カノンはやっぱり怒っているのだと感じた。縮こまるように、しゅんとうなだれる。
 ポエットとフロウティアは、慌ててフォローを入れようとした。
「い、今のは風のせいですよね、フロウティアさん!」
「そ、そうね……もしかしたら風のせいかもしれないわ」
 嘘を吐き慣れていない人のとっさの言い訳など、こんなものである。
 そんな2人を無視するかのように、エアルフリードは落ち込んでいるカノンにふいっと顔を向けた。
「カノン。もう一度」
「……うゅ?」
「もう一回、撃ってみて。今度は『左手』で」
 わけの分からない彼女の言葉に、フロウティアとポエットは首を傾げる。
 カノンは怒られなかったことにほっとして、嬉しそうに大きく頷いた。
「人形の真ん中を狙うのよ」
 ボウガンを構えたカノンに、エアルフリードがそう指示する。
 カノンは片目をつむって照準を合わせ、引き金を引いた!
 ──ドスッ!
「あ……」
「当たった……」
 意外そうな声を上げる見学者2人。
 そしてカノンは顔を輝かせてエアルフリードに振り向く。
 美貌のエルフは、優しく苦笑していた。
「やっぱり『ボウガンは左利き』だったのね。今までずっと左で撃ってたんでしょ?」
「うゆっ」
 言われて、こくんっと勢いよくうなずく。
 ポエットは目を丸くして、フロウティアは不思議そうに首を傾げた。
「どうして分かったの?」
「右で撃って左に逸れたでしょ。いつもとは逆の手で撃つから、カノンは照準を合わせるために、無意識に左寄りに構えていたのよ。だから弾道が斜めになった……でしょ?」
 そう言ってカノンに視線を向けるが、当の本人はよく解っていないのか、小首を傾げる。
 エアルフリードは肩をすくめた。
「ま、いいわ。とりあえず、当てるくらいはちゃんとできるみたいだしね」
「じゃあ、合格ですか!?」
 これが、エアルフリードがカノンの後見人になるかどうかのテストであることを知っているポエットは、自分のことのように嬉しそうな声を上げる。
 しかし、エアルフリードはそれには答えず、ゆっくりとした動作で腰の矢筒から矢を引き抜き、小首を傾げて自分を見つめているカノンに向けて弓を構えた。
「!!?」
 驚き、真紅の瞳を大きく開くカノンの耳に、弦が引き絞られる軋んだ音が響く。
「これからが本番よ」
 エアルフリードの静かな声が、それに重なった。

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