小さな──まだ10にも満たない年頃のカマエルの少女は、間近に迫るその恐怖に、声も出せずに震えていた。
 村からほんの少し離れただけの野原。友達と一緒に、花飾りをこしらえるための花を摘みにきただけの場所。
 そこに現れた一匹の狼が、血走った目を向け、牙を剥く口から涎を垂らしながら、少女を追い詰めるようにじわりと脚を向ける。
 まだ幼い彼女はそれだけで膝の力が抜け、摘み取った花をばらまきながら、ぺたりと座り込んでしまった。目線が狼のそれと同じ高さになる。
 殺気立つその顔をまともに見てしまい、さらに恐怖が募った。
 声を上げたくても上げられない。全身が抑えようのない震えに包まれる。丸い頬を止めどない涙が伝っていく。
 狼が低く唸り、四肢に力を入れる。飛び掛かろうかという体勢のその時だった。
「こらぁっ!」
 誰かの背中が少女の視界を塞ぐ。同じくらいの小さな背中に、同じ純白の片翼。
「かのんをいじめるなっ!」
 目を見開いてその背中を見上げる少女の前で、右手に持つ木の枝を狼に向かって出鱈目に振り回す。
 狼は少しだけ怯んだ。
 枝を振り回しながら、大きく足を踏み出す。
 狼は気圧されるように後退り、素早く背を向けて駆け出した。
 その背中に向かって枝を投げつける。それは狼が姿を消した草むらに当たって、背の低い草を打ち倒した。
 少女は肩で息をしているその背中に、感謝と親愛を込めて名前を呼んだ。
「あ、ありが…とう……てっちゃん……」
 友達が振り返る。晴れ晴れとした、少しばかり自慢げな笑顔で。
「うん。かのんはわたしが守るからな!」

「だからあなたは、足手まといなのよ」
 冷たい眼差し。冷めた声。それがカノンの心に突き刺さる。
 驚いたように──あるいは信じられないといったふうに、カノンは目を見開き、テスタを見つめていた。
 互いの視線は交わるものの、その先にある瞳の色は大きく違っている。そのことに気が付いたとき、カノンは今までとは違う怖さに小さな体を震わせた。そしてその瞳から逃げるようにギュッと強く目をつむり、震える体を抑え込むように、片手で片手を押さえてしゃがみ込んだ。
「テスタっ!」
 カノンの様子を見ていたターナが、非難の声を上げてテスタに振り返る。その瞳と表情には、珍しく怒りの色が浮かんでいる。
「そんな言い方──」
 言い募ろうとした彼女の手を、カノンが掴んだ。引き留めるように、強く。
 ターナは驚いて振り返る。そしてそこに、しゃがみ込んでうつむいたまま、必死に首を横に振るカノンの姿を見て、困惑したように顔を歪ませた。
 カノンは無言の内に伝えているのだ。「テスタは悪くない」と。それは解るものの、どうしてそう思えるのか、なぜ何も言わないのか、それがターナには解らなかった。
 彼女たちの様子を見ていた双子のカマエルもそれは同様で、二人揃って困惑した表情を見合わせる。
 その彼女たちの耳に、全てを吹き飛ばすような奇声が聞こえたのは、その時だった。
「きたきたきたっ! きてるわよーンっ☆」
 数十体のクロキアンに囲まれるバズヴァナンが、妙に甲高い陶然とした声を上げながら気勢も上げる。
 そしてその『気』が一瞬、爆発したように感じられた。
「みんなアタシを見てぇーンっ☆」
 クロキアンたちが一斉に、体躯に見合った巨大な武器を振り下ろす。この攻撃に晒されれば、人間の体などは瞬時に叩き潰されるだろうと思われた。だが、
 ──ガツっ!
 クロキアンたちの武器は皮一枚を切り裂くことなく、鈍い衝撃とともに彼の肉体に触れて止まっていた。
 御輿の上から戦場を見つめる老クロキアン、パナセンが、その信じられない光景に思わず目を見開いて身を乗り出す。
「あれはっ!? 騎士が己の揺るぎない心……信念によって肉体を鋼鉄と化す技ッ!」
「……アルティメットディフェンス、か」
 ライも呆れたように目を丸くして呟いた。
「アタシは今、確実にうつくしぃーッ☆」
 陶酔した表情で叫ぶバズヴァナンに、クロキアンたちが自棄になって武器を振り下ろすものの、全て彼の肉体によって弾かれていく。
 その様子に、ちょっとだけクロキアンたちに同情してしまうライ。
「前にセリオンさんが使っていたのを見たことがあるけど……だいぶ違うな」
 呆れたような顔のままそう感想を漏らす彼の隣に、矢を放ちながら敵を近付けさせないようにしているエアルフリードが、背を預けるようにして並んだ。
「そりゃあ、あんな『信念』の騎士は二人といないでしょ。それにあいつの場合、本当に筋肉が鋼並みの硬さになるんだから、セリオンたちとは違うわ。まさにバケモノね」
 その口調と表情は「嫌なものを見た」とでも言いたげである。
「けど、チャンスはチャンスか……ライ、合わせなさいよ!」
「え?」
 言うや、返事も聞かず、バズヴァナンがいる方へと駆け出すエアルフリード。その前方に、先ほどまで彼女を追っていたクロキアンが立ちはだかる。
「ちょっと借りるわよ!」
 巨大な剣が振り下ろされた瞬間、彼女は身軽に跳び上がってそれを躱し、クロキアンの腕を、次いで頭を踏み台にして、宙へと舞い上がった。
 そして空中で器用に身を捻り、矢をつがえた弓を限界まで引き絞る。
「集え! 大気の精霊よ!」
 鋭く発したその声に応え、矢の先端に精霊の力が収束し、光を放った。
「長老! 上にっ!」
「なんじゃと!?」
 御輿を担ぐクロキアンが気が付き、指を差したときにはもう遅い。
「そういうことかっ!」
 合わせてライも魔力を解放する。
 ──ズグォオオオオオオオンッッ!
「ファイヤーよおおおおおおンっ!?」
 エアルフリードの矢が放たれ、ライの魔法が到達した瞬間、バズヴァナンを囲むクロキアンたちを中心として巨大な爆発が巻き起こった。それは大気を震わせ大地を抉り、クロキアンたちに強力なソニックウェーブを叩き付け、あるいは業火で包み込む。
 無論、真ん中にいたバズヴァナンも。
「アラやだ。お化粧が崩れちゃうわン」
 いたって平気そうではあったが。
 自分を包み込む炎を、文字通り煙たそうに振り払い、慌てて手鏡なんかを覗いたりしている。
 しかしその周囲にいたクロキアンたちは、全員こんがりと焼き上がっていた。
「あ〜。やっぱり平気かぁ……ちぇっ」
「……あの人ごと消すつもりだったのか」
 華麗に着地しながらも苦々しく呟くエアルフリードと、ジト目を向けるライ。
 そんな彼らの様子に、クロキアンの長老パナセンは、その大きな口をあんぐりと開けて、惚けていた。
「み、味方ごと……鬼か、奴らわ……」
「ど、どうしますか!? 長老!」
「被害甚大です! 撤収しましょう!」
 御輿を担いでいるクロキアンたちが慌てふためいた声を上げる。
 たしかに彼らの言うとおりだったが、自分たちから仕掛けた以上、パナセンとしてもこのまま引き下がるわけにはいかない。
「う、うろたえるでないっ! まだ手はあるはずぢゃ! まだ……ん?」
 その視線の先に、カノンたちの姿があった。

 カノンは、顔を伏せて両腕で隠すようにしゃがみ込んだまま、動かない。
 足手まといと言われたことがショックなのではない。それは自分でも解っていることだから。
 テスタに言われたことが、彼女の心を切り裂いていた。
 幼い頃から一緒だった──ずっと自分を守ってきてくれた、彼女に言われたことが。
 カマエルの村で訓練が始まった時も、彼女には怒られた。一緒に冒険に出るようになってからも、優しい言葉は掛けてくれなくなった。再会した時にも、冷たくされた。
 それでも彼女は友達だから。自分が情けないのがいけないのだから。認めてもらえるように頑張れば、きっと昔みたいに仲良くできると信じていた。
 だから……
「くそっ……まともにやり合うには、まだちと辛いな!」
「それじゃあ、交替です!」
 歯がみしながら、後ずさるように下がってきたアレクシスに代わり、ポエットが両手鎚を構えて前に出る。
「いっけぇーっ!」
 渾身の『気』を込めて、周囲にいるクロキアン全ての頭上に放つ。花火のような『気』の飛沫が降りかかると、クロキアンたちは憤怒の形相でポエットに向かってきた。
「なあ、あいつらなんであんなに怒ってるんだ?」
「スポイルを浴びると、体の中が変になる感じなんですよ。歯が痛かったり、お腹が減ってると、何だか苛々しますよね? あんな感じです」
 背中を合わせるアレクシスの疑問に、ポエットはちょっと考えるようにしながら答える。それは実体験に基づいた回答だった。
「お母さんのスポイル、怖かったなぁ」
「お前、どんな子供時代だったんだよ……」
 目を小さくしながらぷるるっと震えるポエットに、アレクシスは顔を引きつらせながら突っ込みを入れる。
 彼らはそんな会話を交わしながらも、クロキアンたちの攻撃を捌き、あるいは受け止め、ポエットに至っては反撃まできちんと繰り出していた。そこには余裕がある。
 だから彼らは同時に、ちらりと背後のカノンたちに視線を向ける。
 しゃがみ込んだままのカノン。それを心配そうに見つめるターナと双子。そして、全く意に介していないかのように、こちらの戦闘を見つめるテスタ。
(……空気、重っ!)
 二人は今のやりとりで少しでもその空気を軽くしたかったのだが、どうやら効果はなかったようである。というか、そもそも聞いてくれていないらしい。
 しかしそれはさすがに、少しばかり余裕が過ぎていた。
「そこぢゃ! あのカマエルどもを狙えぃ!」
 パナセンの金切り声が響き渡る。それと同時に、老クロキアンがかざしたその杖から閃光がほとばしった。
「そうはさせない!」
 一直線にカノンたちを狙って伸びたその魔力の帯を、間に入ったライが自身の魔力で相殺する。
 だがそのライを狙い、左右から飛刀が投げ付けられる。
「──っ!」
 ガキンッ!
 躱せないと覚悟をしたそのライの前で、まさに肉の壁のごときバズヴァナンの鎧と盾が飛刀を弾き落とした。
「カワイイ顔に傷でもついたら大変だわン☆」
「あ……はは……どうも」
 ウインクしてくるバズヴァナンに、引きつった笑顔で応じるライ。
 しかしそれは、ただの合図でしかなかった。
 ポエットとアレクシス、そしてカノンたちを囲むように、飛刀を構えるクロキアンたちがずらりと並ぶ。
 さすがの二人にも冷や汗が浮かんだ。
「こりゃ……やばいな」
「防ぎ切れませんよー!?」
 それはテスタたちも同様だ。いや、彼女たちの方がより切迫しているといいだろう。
「くっ……」
「え〜ん! あたしたち死んじゃうの〜!?」
「美人薄命って本当なのね〜!?」
「そんな……」
 ターナは絶望的な顔色で周囲を見回す。
 今にも飛刀を投げようというクロキアンたち。その向こうにいるバズヴァナンとライは、まだ交戦中であり、援護には来られない。ポエットの長柄を以てしても、飛刀の一斉攻撃は叩き落とせないだろう。
 彼女の頭からは、カノンのことはすでに消えていた。
 そしてそのカノンは、まだうずくまったままだ。
「こうなったら、せめてあの子たちだけでも……」
「俺、そういうキャラじゃねぇんだけどなぁ」
 決死の覚悟を決めたポエットの呟きに、アレクシスも青くなった顔に苦笑いを浮かべながら、いつでも飛び出せるように身構える。
「やれぃっ!」
 パナセンの号令が轟いた。
 無数の飛刀が一斉に放たれ、円陣の中のカノンたちに向かう。
「──っ!」
 誰もが覚悟を決めたその時、
 ──ガガギィンッ!
 テスタたちに向かった飛刀が、空中で何かに弾かれ、その軌道を変える。あるいは地面に突き刺さり、あるいは互いに衝突して落ちていく。
 そしてその現象は、コンマ数秒という時間差を置いて、飛び来る全ての飛刀に起きた。
「な、なんぢゃあっ!?」
 パナセンならずともそう叫びたくなるだろう。火花すら散らすその音に、覚悟を決めて目を閉じていた者も目を開ける。
「これは……」
「まさかっ!?」
 唖然とするポエットとアレクシスは、直感的にその方向に振り向く。
「ぼやっとしない! この隙に突破!」
 そこには、愛用の長弓を水平に構え、複数の矢を同時に放つエアルフリードの鬼気迫る姿があった。
 彼女がその弓から数本の矢を放つたび、カノンたちに向かう飛刀がその矢によって軌道を変えられる。
 まさに神業。
 御輿の上のパナセンが、わなわなと震える。
「な……なんと……なんと小癪なエルフじゃあっ! 誰ぞ、あの者を討てぃっ!」
「む、無理です長老!」
「あんなの勝てません!」
「だまらっしゃあっ! ワシが討てといったら、討つのじゃああああっ!」
「長老がご乱心なされた! 引き上げるぞ!」
『応っ!』
「ま、待て貴様ら! 勝手に逃げるなぁ!」
「暴れると落ちますよ」
 いかに勇猛なクロキアンの戦士たちであれ、目の前で見せつけられた神技に肝を冷やさない者はいない。御輿の上で尚もわめき立てるパナセンを宥めつつ、一目散に来た道を戻り始める。
「おのれっ! 憶えておれよ、エルフめぇーっ! ワシはきっと戻ってくるぞぉーっ!」
 そんな遠吠えのような声を残しつつ。
「戻るって……あんたの住処は、ここでしょうが」
 逃げ去るクロキアンたちを見ながら、エアルフリードは呆れたように息を吐く。それは同時に、戦いの終わりを告げていた。

「カノン?」
 暖かい手のひらと優しく語りかける声に、カノンはようやく顔を上げた。泣き腫らして赤くなったその顔を。
 エアルフリードは、そんなカノンの姿にこれといった反応は見せず、普段と変わらぬ表情で、いつも彼女にそうするように素っ気なく、頭を撫でていた手を離して踵を返した。
「帰るわよ」
 その言葉で、カノンはゆるゆると立ち上がる。憔悴しきった顔を尚もうつむけたまま、焦点の合っていないような瞳で足下を見つめて、エアルフリードの後ろをとぼとぼと歩く。
 二人が進む少し先を、ポエットとアレクシス、そしてライが歩いているのが見える。さらに向こうに見える海岸には、すでに夕陽が沈む姿が見えた。
 足下に差すエアルフリードの長い影を見つめながら、カノンは小さく口を開く。
「……おねえさま」
「ん?」
「かのん……おうちに帰ります……」
「……そっ」
「うゅ……」
 ──だから。
 カノンは決めたのである。

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