「セリオンのことが、もっと好きになる魔法だよ……」 情景が蘇る。 「ね? 今度はセリオンがして……私のこと、もっと好きになって?」 頬を赤らめながら照れたようにはにかむメリスに、セリオンは少しの躊躇いの後、彼女がそうしたようにそっと口づける。 「ん……」 柔らかい、そしてほのかに甘いような感触。 二度目だからだろうか。少し余裕がある。 いつまでもそうしていたい心地の良さを感じながら、同時に、もっと深く彼女に触れたくなる衝動が沸き上がる。 セリオンは自然と彼女の肩に手を置き、抱き寄せていた。 「……」 閉じたまぶたの向こうで、彼女が微笑んだように感じた。 メリスの両手が、そっとセリオンの背中に回される。そして…… 「セリオン。もう起きないと」 呼ばれたその声に、未だまどろみの中にいたセリオンは、意識を少しずつ覚醒させる。 重いまぶたをゆっくりと開いていくと、そこにはいつもの彼女の笑顔があった。 「今日もいい天気だよ」 窓から差し込む光よりもさらに輝いて見える、メリスの笑顔。 セリオンは眩しそうに目を細めて、微笑んだ。 「おはよう、メリス」 あれから、二人の時間はさらに増えた。 「ご飯食べたら、今日も魔法教えてね」 食堂へと向かう廊下を歩きながら、メリスは隣を歩く愛しい人に微笑みかける。 「もうすぐ戦は終わるのに……もう魔法も必要なくなるかもしれないぞ?」 セリオンは愛すべき人の無邪気な頼みに、苦笑を漏らす。 「魔法は戦いの道具じゃないって言ったの、セリオンだよ?」 「そうだけど。……まあ、何年も練習して、やっとそよ風を起こせる程度のメリスなら、そっちの方が向いてるかもな」 「あー、またそんなこという。セリオンのいじわる」 頬をふくらませるようにして抗議するメリスに、セリオンは破顔してその緋色の髪に包まれた頭を撫でた。 出会った頃よりずいぶんと大人っぽくなった彼女だが、こうした仕草には幼さが残っているように見える。それは、ある意味で完成された容姿を持つエルフ族には無い、人間ならではの柔らかい魅力のように思えて、セリオンにはとても好ましいものだった。 「戦争……やっと終わるんだね」 ぽつりと呟く。 「ああ。やっとね」 頭を撫でていた手を滑らせ、手の平で髪を梳くようにする。メリスはそのセリオンの手の暖かさを楽しむように、目を閉じた。 「そうしたら私、セリオンの村に行きたいな」 「俺も。メリスが生まれた場所を見てみたい」 「何もないよ?」 「それでもいい」 「ん」 それはあと少しで現実となるだろう願い。 戦場で出会った二人が、平和な時代を共に歩む夢。 叶えられると信じていた。その未来に疑いはなかった。 少なくとも、この二人には──。 それは、突然の通達だった。 「エルフ族のセリオンには、後方の拠点に移ってもらう」 オーク族との停戦交渉が始まった頃、部隊長であるヒューマンの男は、抑揚もなく部隊員たちにそう告げた。定時集合の時である。 「納得いかない……」 部屋に戻った途端、メリスは不服を満面に浮かべた表情と声音でそう言った。部隊長からの通達があったときから、ずっとそれを隠そうとはしていなかったのだが。 それはセリオンも同感だったが、少しはこの人事の事情を考える余裕がある。 「たしかにそうだが……戦いが終わるから、魔法が使える者は、戦地となった場所の復興を支援させるのかもしれない」 「だったら私もっ!」 「メリスが魔法を覚えたこと、俺以外には知らないだろ?」 「そうだけど……」 「それに……ヒューマンの中にエルフがいるのは、もうこの部隊だけだしね」 そう言って、セリオンは少しだけ寂しげに微笑んだ。 今や前線で戦っているのは、全てヒューマンたちだ。エルフたちは後方からの支援に徹している。無論、彼らがそう望んだわけではなく、なるべくしてそうなったのだ。 メリスは唇を噛むようにしてうつむく。 「……どうしてみんな、そんな風に思っちゃうのかな。エルフだからって嫌いになるのかな。私にはわかんないよ」 「メリス……」 言うべき言葉が見つからないセリオン。 彼とてメリスに出会うまでは、ヒューマンを見下していたのだ。長く虐げられてきたヒューマンたちの気持ちは、推して知るべしだろう。 しばらくそのまま、互いに何も言えず無言の時が流れた。 やがて、メリスが決意したように顔を上げる。 「私、掛け合ってみる! セリオンと一緒にいられるように!」 「え?」 「一緒の部隊じゃなくても、同じ場所にはいられるもん!」 メリスはそう言うと、セリオンが止める間も与えず、部屋を飛び出していった。おそらく部隊長のところへ行くつもりだろう。 「そんなに上手くいくとは思えないけど……」 しかし、セリオンとて離れたくない気持ちは同じである。その可能性があるのなら、やってみるのもいいだろう。 苦笑を浮かべながら、メリスの後を追うべく、セリオンもまた部屋を後にした。 「オーク族との交渉は順調のようだ。エルフたちに任せておけば、問題なかろう」 「そのエルフたちも疲れ切っている。過去に例がないほどの、長きに渡る戦いゆえな」 「事は上手く運んでいるということだ。準備は抜かりなくな」 その会話が聞こえたのは、偶然ではなかった。 メリスは部隊長どころか、この拠点にいるはずの軍の司令官に直談判するべく、その姿を探して砦の中を駆けていた。その際、セリオンから教わった風の魔法を身に纏っていたことが、その声を聞く切っ掛けとなったのだ。 最初は、思わぬ副作用で目的の相手を見つけたことに喜んでいたが、声が会話になるつれ、その内容に思わず足を止めてしまう。 「兵士たちには、まだ知らせるな。直前になるまで伏せておくように」 「しかし、エルフたちに不審がられはせぬか? 我らの部隊だけを前線に集めるなどして」 「なに、心配はいらん。奴らは我らのことを侮っている。そしてその実力の差を、我らも承知していると思いこんでおる。現状を面白く思ってはいないだろうが、疑ってなどはおらぬよ」 「左様。よもや我らが反旗を翻すなどとはな」 ──!? その言葉が聞こえたとき、メリスは思わず出そうになった声を口を塞いで遮った。そして踵を返して走り出す。 セリオンを探して。 しかし、その意識の驚愕は、彼女が掛けた魔法の魔力に乗って、伝播する。 「……風の悪戯か」 砦の奥まった一室に集まるヒューマンたちの中で、一際立派な風格を持つ壮年の男は、微笑を浮かべて呟いた。 「なにか?」 「どうやら聞かれたようだ。今の話」 「なんと!」 「ただちにその者を拘束しましょう。噂でも広まれば、エルフたちにも聞こえてしまう!」 「しかし、何者がっ」 「いや、推測はできる」 男は慌てる一同を静かな声で制し、すっと椅子から立ち上がった。 「追跡隊の準備をしておけ。腕の立つ者たちをだ」 そう言い放った男を、他の者たちは不思議そうに見つめた。 「王……?」 「あれはおそらく、エルフの恋人だ」 ヒューマンの王は、ふっと笑みを零してそう言った。 「セリオン!」 駆けだしてほどなく、歩いてくる彼を見つけて、メリスはその胸に飛び込んだ。 「メリス? どうした」 肩を抱くようにして受け止めたセリオンは、ただならぬ様子の彼女に首を傾げる。 メリスは必死な面持ちでセリオンを見上げた。 「大変だよ! みんながエルフと戦うって!」 「なに……?」 「反旗を翻すって!」 「反旗……ヒューマンが!」 メリスの言わんとしていることを理解した瞬間、セリオンには今までのこともその理由も、全てを察した。 だからヒューマンは、この戦争に参加したのだ。 さすがに色を失う。 今のエルフ族には、誰一人としてそんなことを想像している者はいないだろう。いや、反乱までは予想していても、まさか自分たちが負けるとは思っていないだろう。 しかし、常に前線でヒューマンと共にいたセリオンは、彼らの強さを知っている。 油断と驕り、そして長い戦いの疲労を引きずるエルフたちでは、勝ち目は薄い。 ましてや、このタイミングだ。 「どうしよう……どうしたら……」 「落ち着け、メリス」 腕の中でわけもなくきょろきょろと周りを見回すメリスを、セリオンは肩に置いた手に力を込めて落ち着かせる。 「まずは、一刻も早くみんなに知らせることだ」 そう言う彼も、顔色は良くない。メリスが慌ててくれていることが、幾分か冷静さを保たせる糧になっているだけだ。 「そ、そうだね。エルフの人たち、近くにいるかな?」 「オーク族との調停のために、長老たちが国境まで来ているはずだ。そこに行こう」 今ならばまだ間に合うかもしれない。長老たちならば、ヒューマンの族長たちを抑えることができるかもしれない。そうすれば戦いなどは起こらない。 最悪、反乱を防ぐことはできなくても、起きることが分かっていれば対策の立てようもあるだろう。少なくとも奇襲は受けずに済む。 そこまでを考えて、セリオンは行動を起こすべく動きかけた。 腕の中のメリスが、彼の服を引くようにしてそれを止める。 「私も……!」 「……ああっ!」 彼女の手を掴んで、廊下を走り出す。 言われなくてもそうするつもりだった。 ヒューマンとの戦いに同じヒューマンである彼女を連れて行くことになるのだが、この時のセリオンはそのことを完全に忘れていた。あるいはもう、種族の違いなど念頭になかったのかもしれない。 メリスと一緒にいる。 それがごく当たり前で、彼女が傍にいない自分など、想像もしていないのだろう。 いつもとは逆に、引っ張られるようにして走りながら、メリスはそんなセリオンの背中を嬉しそうに見つめる。 しかしその笑顔とは裏腹に、彼女自身は強い決意を以て同行を口にしたのだ。 メリスは解っている。 自分の選択が、どんな結果を生むのかを。 今まで仲間だった人たちと、生まれてからずっと共にいた人たちを、敵に回すことになることを。 それでも── 「セリオンより大切なことなんか、ないんだ」 その気持ちは、誰にも止められない。 →第4話へ |
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